Silver trace of God’s wind  一度きりの出会いの日

   2003年9月、星野富弘さんは旭川を訪れました。15年前の1988年5月20日、綾子さんが群馬県の富弘さんを訪ねて対談したとき、今度は富弘さんが旭川にお出で下さいと言ってくれたからです。その秋、綾子さんが天に召されて四年になろうとしていました。富弘さんはこの日、念願の塩狩峠を訪れました。そしてその記念に「塩狩峠に咲いていた野菊」という詩画を描きました(『信仰のものがたり』という素晴らしい本に載っています。星野富弘さん、水野源三さん、日野原重明さん、佐藤初女さんが紹介され、巻末には私の講演が載っています!)。そこには、野菊の絵に添えてこう書かれています。

   「あの人のようになりたくて あの人の後を追っていたら あの人の前に キリストがいた」

   15年前の対談録『銀色のあしあと』の「あとがき」に富弘さんは書いています。

   『塩狩峠』を読んだのは、私がまだ病院のベッドに仰向けのままで、来る日も来る日も病室の天井と空ばかりを見つめていた頃でした。三浦綾子さんと曽野綾子さんが、ごちゃまぜになっていたほど無知でしたが、『塩狩峠』は衝撃でした。そして続けて読んだ三浦さんの著作により、三浦さんは私の人生に大きな位置を占める人となったのです。
   どこに続いているのかわからない真っ暗な夜道を、一人で寂しく歩いていた私の前を、明るい光をもって、楽しそうに歩いて行く人が現われた……そんな気持ちでした。         

   1988年当時、三浦綾子さんも星野富弘さんも『百万人の福音』に連載を持っていました。星野さんは巻頭の詩画、綾子さんは『風はいずこより』(1990年9月・いのちのことば社刊)に収録されるエッセイでした。
   すばらしい田舎である星野さんのふるさと群馬県勢多郡東村(現みどり市東町)。ここに三浦綾子さんを招き、お二人に心ゆくまで語り合っていただきたいという願いで、森重ツル子さんやいのちのことば社の鴻海さんなどが中心になって企画は進められました。
   桐生から渡良瀬川に沿って渓谷を走る渡良瀬渓谷鉄道に乗って行く二時間に一本の列車。神戸(ごうど)という駅で降りると、小さなローカルバスが止まっています。それに乗って10分ぐらい更に川を上る方向に行くと、富弘美術館に着きます。美術館は91年に出来ましたから、綾子さんが行ったときにはまだありませんでした。星野さんの家は駅から坂を上がって、正面少し左の山裾あたりにありました。
   1988年5月20日。この日は『風はいずこより』の綾子さんの文章によれば、「三十二度もある暑い日」でした。編集の熊田和子さん、写真の小林恵さん、グロリア工芸株式会社(グロリアアーツ)社長の大嶋清・千津子夫妻もおられました。対談の前夜は国民宿舎に宿泊し、大嶋氏の自家用車で星野家に向いました。熊田和子さんによれば、その朝、光世さんとともに星野家に到着した綾子さんは、星野さんの部屋に請じ入れられるなり、ベッドの上の星野さんを抱擁し、涙をこぼしました(『銀色のあしあと』「発刊にあたって」)。
   これが、三浦綾子と星野富弘の出会いの瞬間でした。綾子さんらしいと思うのですが、星野さんにとって介護されことは日常でも、抱擁されるという経験は多くはなかったかもしれません。でもそれは彼にふさわしいものでした。星野さんは言っています。

   星野 小さな花でも描いていると、だんだん大きくなって、反対におれは虫のように小さくなって、花の中を歩いているんです。それから、花を描いているようで、実は自分を描いているんですね。虫食いの穴があったり、汚れていたりしているのは、まさに、自分の姿なんです。

   星野富弘の絵の世界は、部屋の中で、ある一定の距離にある花を描くしかないという、身体的、あるいは環境的な条件から来るものでもありますが、基本的に遠近法のない世界です。遠近法というものは目で見たものを知的に構成する操作ですが、富弘さんは、もっと体感的な出会い方を花々としているのです。世界の中に、作られて存在しているそのものと、同じようにつくられて存在している自分自身との対話とそして時には格闘がそこにはありました。
   綾子さんはこんな分析をしたわけではないでしょう。しかし、綾子さんは富弘さんを抱きしめました。星野さんは二十四歳の時からずっと、綾子さんもまた二十四歳の時から十三年間の闘病生活で、そのうちの半分以上が身動きできないギプスベッドでした。兄弟のような富弘さんを思わず抱きしめて、綾子さんの目から涙が溢れました。それは、富弘さんに相応しい出会い方であったと思います。目で見て言葉を交わして認知するより先に、富弘さんは抱きしめられて、このとき三浦綾子に本当に出会ったのだろうと思います。
   綾子さんと富弘さんの対談はゆっくりとしたペースで、休憩と昼食をはさんで午前と午後二時間ずつ、計四時間なされました。一応の話の流れは打ち合わせしていましたが、それにこだわらずに自然な流れで展開していきました。
   富弘さんも綾子さんも長い年月の体の不自由を体験した人でした。そしてその中で、信仰も、人格も、芸術家としても養われていった人でした。対談のなかで、星野さんは言っています。

   星野 病気とか怪我とかっていうものに、最初から「不幸」っていう肩書はついてないんじゃないかなと思うんですね。それをつけるのは、まず人々の先入観、それから、その人のそれまでの生き方の問題というか。(略)
   星野 普通に考えたんでは、『貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです』というのは変だなあと思うんだけど、それが実感として、そうだ、そうだなと思えたとき、なんかそのあたりから、幸せが増えたような気がしますね。(略)
   三浦 『苦しみに会ったことは、わたしにとってしあわせでした』と、いただいた色紙に書いてあって心打たれましたけど、苦難をいいものとして受け入れたら、もうこれ以上のことはないですよね。
   星野 もちろん、そのとき、そのときの小さな苦しみや悩みはありますけど、でもそれがまとまって束になると、とてもいいことに変わっちゃうんです。

   この色紙は『銀色のあしあと』巻頭に写真が載っていますが、ぼけの花に、詩篇119篇の上記の言葉が書き添えられた絵です。この日二人は数時間の対談をしましたが、二人が結び合う共感の中心はここにあったのだと思います。
   この日の出会いと対談を思い出して、富弘さんは「あとがき」にこう書きました。

 原稿になったもの(対談)を読みながら、あのとき三浦さんが語りかけてくださった、お言葉のひとつひとつに蘇ってくる、優しいお心づかいに感謝せずにはいられません。私の口から出た言葉は、三浦さんの信仰から来る優しさに誘われて、引き出していただいたものだと思っています。
   今も、ベッドの上から部屋を見回して思います。一九八八年五月二十日に、三浦綾子さんと、ご主人の光世さんがこの部屋に来てくださった。あの椅子に座ってくださった。あの窓の前に立たれて山を見上げ、「きれいだぁ!」といってくださった。苗代に揺れる五月の山を眺めながら、あぜ道を並んで歩いてくださった。
   思い出すたびに新たな力と喜びが溢れてきます。そして、さらに私の喜びは、今も三浦さんと同じ聖書を読み、同じ信仰の道を共に歩ませていただいているということです。  

   これが本当の出会いなのだと思います。長い人生の中のたった四時間であるのに、その日からその部屋は一変しました。単なる病室ではなく、その人がそこにいた場所になりました。いつまでもその出会いは終わらないものなのです。その方が私に会うために来てくださることのうれしさ。私の生まれたふるさとに、私の住んでいる村に、その人が来てくださることの感激。そして引き出されるように語り合い、一緒に歩いてくださったことの喜び。たった一度きり、なのに決して終わらない一度きりというものがあり、生涯を支えてくれるものにもなりうるという幸いを、富弘さんは語っているのです。
   この出会いの日、綾子さんはこう祈りました。

   私の一生に、このように素晴らしい日をいただけたことをありがとうございます。星野さん、お母さん、奥さん、ごきょうだいの方々、おひとりおひとりの今までの大変な日々や恵まれた日々それらすべてが本当に素晴らしい花のように、今、神の前に捧げられていることを思って、感謝いたします。

   「私の一生に、このように素晴らしい日をいただけたことをありがとうございます」と言える日が、人生のなかにある。何という幸いでしょう。そんな日を私も持ちたい。そして、欲張りだけれど、できることなら、どうかして毎日毎日、どの日も、そんな風に生きられたらと思います。「一期一会」という言葉がありますが、この二人の出会いも、共に過ごした時間も、一生にたった一度きりのものでした。二人は二度と会うことはありませんでした。しかし、この一度きりの語らいの時間の中にも永遠の光は満ちている。ただ感謝をもって心の窓を開いてみさえすれば、それがわかる。そしてそれは、神の前に捧げられた素晴らしい花のように、永遠の花になる。綾子さんの言葉の背後を吹いている風の声がそう語っているように思います。

  ※写真は、翌89年に星野家を訪ねた島崎光正、キヌコ夫妻が撮影したもの。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。