夫は妻を自分のからだのように愛すべし

   1999(平成11)年 7月11日、三浦夫妻は旭川六条教会の礼拝に出席しました。その朝は芳賀康祐牧師が「敵をも愛せよ」と題して、綾子さんの作品からも引用しながら説教しました。「先生、ありがとう」と言う綾子さんに、芳賀牧師は、
「また次の日曜日にお会いしましょう」
と励ましてくださいましたが、この日が綾子さんの人生最後の礼拝出席となりました。そして、その翌日のことを光世さんはこう書いています。

    一九九九年七月十二日は、綾子は夕食に難儀した。二時間程テーブルに向かって食べていた綾子が、「居間のソファに行って、横になり一眠りしたい」と言い出した。これを私は聞いてやらなかったのである。
「横になって、また起きて、台所に戻って、再び食事を続けるより、適当に切り上げて、二階に上がって寝た方が楽だろう」
    などと、もっともらしい理屈をつけて、求めに応じてやらなかった。綾子は文句も言わず私に従って、黙々と食べ続け、遂に四時間十分に及んだ。どんなに苦しかったことか。  (『二人三脚』)

   翌7月13日の朝は、二階から階段を降りるのに、今までにないほど難儀しました。一段ごとに尻もちをつくのです。光世さんは綾子さんの左手をとって先導しました。声を大にして励ましても、綾子さんは一段ごとに坐りこみました。光世さんも汗をびっしょりかくほどでした。洗面をする力もなく、熱を計ると高熱でした。熱は午後には39度8分まで上がりました。柴田淳一医師に往診してもらい、翌14日には38度5分まで下がりましたが、進藤和行医師に相談し、旭川リハビリテーション病院が良いという判断でしたが、空きがないとのことで、とりあえず進藤病院に入院することになりました。

 玄関を出る時、ふと私は、再び家に帰れないかもしれないとの思いが、脳裡をかすめた。そしてそれは事実となったのである。夕食後、綾子の言うとおり休ませてやれば、何のことはなかったのだ。二人三脚はこうして、最後に大きくミソをつけた。(『二人三脚』)

   光世さんはこの数日のことを思い返しては、なんと愚かで愛の少ない自分であったかと、なんども悔いては、天国で綾子さんに再会出来たら謝らなければならないと語りました。「二人三脚はこうして、最後に大きくミソをつけた」という言葉にも、その渋い思いは現れています。最後の大事なときに、私はなんという夫であったろう。綾子と四十年を共にして、自宅で過ごした最後の日々の思い出が、綾子に苦しみを強いるあんな苛立ちで満ちたものであるなんて。そう思われてならないのです。誰がどう見ても光世さんは妻を支える夫として最高の姿を見せてくれた人でした。しかし、その最後に最も大きな悔いが残ったのです。愛すべき人を愛しきれなかったということほど、人にとって辛い悔いはないのかも知れません。
   この三浦夫妻の老老介護の様子をテレビで見て、救われた人を知っています。その人は、中学校の教諭をしていた五十代のときに妻が要介護状態になり、心身共にボロボロに疲労困憊して、「もう死んでくれないかな」と思い続けた地獄の日々のなかで、三浦夫妻をドキュメントで見ました。そしてその光世さんの献身的な姿と優しさ、苦難をも良いものとして受けとめる心に、その人は泣きました。しばらく涙が止まりませんでした。そして、不思議に全く変えられたのでした。
「地獄のようだった介護が、それからちっとも辛くなくなったのです。顔を拭いてやると、妻がにっこり笑う。それが、めんこくて、めんこくて」
   それから更に妻の介護は十年以上続きましたが、それは彼にとって、人生で最も幸せな時間になったというのです。
   しかし、1999年7月12日、13日は光世さんにとって、忘れることのできない日になりました。その日の自分を思い出しては、光世さんは砕かれたのです。「夫は妻を自分のからだのように愛すべし」との言葉の前に、砕かれ続けたのです。「何が二人三脚だ」と唾棄したいような胸苦しさだったのです。
   誰の人生の中にもきっと、こんなに深く刺さっている棘のような日の記憶があることでしょう。でも、それが人を謙遜にし、謙遜が人を育て、その人の歩みがまた他の人の道の光となるということがあるのだろうと思います。光世さんは、そうやって悔いている姿もふくめて、やっぱり世の光のような人だったと思います。
   私も思い出すと、わーっと叫んで走って、石狩川にでも飛び込みたいような記憶が幾つもあります。日本中土下座して廻らなければ、と思える日があります。でも、取り返しのつかない馬鹿な自分が、くやしいけれども、それでも生かされていることに、申し訳なさと、ありがたさと、不思議な可笑しさと、地べたや水たまりみたいな懐かしさもある、ように感じるのです。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。