石見人 森 林太郎トシテ死セント欲ス ― 鴎外忌
今日7月9日は森鴎外の命日です。1922(大正11)年でした。三浦綾子が生まれた同じ年の二か月半後になります。鴎外は結核の症状が重くなり死に臨んだとき、東大医学部時代からの親友賀古鶴所に頼んで口述筆記によって遺言書を綴りました。
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ 一切秘密無ク交際シタル友ハ 賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス 死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官憲威力ト雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人 森 林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス 森 林太郎トシテ死セントス 墓ハ 森 林太郎墓ノ外一字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許 サス 大正十一年七月六日 森 林太郎 言(拇印) 賀古 鶴所 書
森鴎外は、夏目漱石と並び称される文豪ですが、他方で軍医総監(中将に相当)という国の高級官吏として栄達を極め、位階や、勲位などがついていました。鴎外は、生を終わるに臨んで、このような飾りを棄てようとしたのでした。「余ハ石見人 森 林太郎トシテ死セント欲ス」と決然と言い放ったとき、賀古は友の顔を驚きの目で見つめたことでしょう。
鷗外の葬儀は、7月12日、谷中斎場において仏式で行われ、13日に日暮里火葬場で荼毘に付されて、弘福寺に埋葬されました。ところが大正12年9月の関東大震災によって同寺が全焼したため、昭和2年10月2日、墓は三鷹市の禅林寺に移されました(写真)。その後昭和28年7月、遺言書の意を汲む形で分骨されて、故郷の島根県津和野の旧藩主菩提寺でもあった永明寺にも同じ中村不折揮毫の墓ができました。
さて、鴎外はなぜすべてを捨てて、「文人」としてでもなく、「石見人 森 林太郎(いわみのひともりりんたろう)」として死のうとしたのでしょう。石見の国津和野は10歳で上京して以来、帰ることのない地だったのにです。
鴎外・森林太郎は1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田)で生まれました。代々津和野藩の典医を務める森家の嫡男で、幼時より論語や孟子のみならず、オランダ語も学び、当時の記録によれば、9歳で15歳相当の学力があったと推測されています。
1872(明治5)年の廃藩置県をきっかけに10歳で父と上京。現在の墨田区東向島に住み、官立医学校入学に備えてドイツ語を学びます。政府高官であった親族・西周邸に一時期寄宿しますが、翌年、残る家族も津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住みました。そして、1873(明治6)年には11歳(多くの文献に12歳とあるのは数え年か)で年齢をいくつか詐称して東京大学医学部予科に入学しています。
鴎外の津和野時代は1862年から1872年までの10年ですが、林太郎が5歳のときに、徳川時代が終わり日本は新しい時代に移りました。それは、山陰の山峡の小さな町ではまだリアルな実感を伴ったものではなかったでしょう。しかし、その翌年1868年から数年間にわたって、この山陰の小京都の平穏を揺るがしたであろう恐ろしい事態が起きることになりました。
その事件とは、長崎浦上のキリシタン信徒の津和野への流罪と拘留、拷問です。
鴎外自身は一度もこのことに触れて語ることはありませんでしたが、津和野を離れたとき10歳だった林太郎の知力が翌年東大医学部に入学できるレベルだったのは事実ですから、何も知らなかったということはあり得ないでしょう。勿論、藩はこのようなことは秘匿するもので、浦上信徒らによる体験談以外に、記録が非常に少ないのですが、庶民は必ず聴き耳を立て垣間見しようとするもので、事に当たった下級役人あるいは更に下の仕事をする人々も多くいましたし、150名を超える信徒が送られてきたのですから到底隠せるわけもなく、当然町の人々は多くを聞き知っていたはずなのです。
1867(慶応3)年、ベルナール・プティジャン神父による信徒発見から始まり、7月には、新政府によって長崎浦上の隠れキリシタン弾圧事件が起きました。「浦上四番崩れ」と呼ばれる事件です。浦上村の信徒3392名が萩・福山など西日本各地に配流となりますが、津和野藩には、1868(明治元)年、まず浦上の信徒のリーダー28名、翌年にはその家族など125名、合わせて153名が送られました。
信徒らは長崎から安芸国廿日市の津和野藩御船屋敷まで船で運ばれた後、90キロを徒歩で移動して津和野の町裏にある光琳寺に到着、本堂に幽閉されました。当初は津和野藩により改宗の説諭が行なわれましたが棄教する者はなく、困った津和野藩は信徒に対し激しい拷問を加えて、1870年(明治3年)までに37名もの殉教者を出しました。三尺牢(縦横高さとも一メートルの牢で体を伸ばすことが出来ない)は有名ですが、あるときは裸で屋外の牢に入れられた信徒に聖母マリアのような婦人が現れて励ましたという伝説もあります(カトリック広島司教区の司教は聖母の出現として認可していますが、カトリック教会としては未承認)。
1873(明治6)年、諸外国からの抗議の圧力でキリシタン禁令のご高札が外されて禁教解除になり、信徒たちは釈放され、浦上へ帰還しました(その約50年後には徳川時代毎年正月に踏み絵をさせられた庄屋跡に浦上天主堂が建ちますが、その約20年後にはすぐ近くの頭上で原子爆弾が炸裂し、天主堂は瓦解します)。カトリックの広島司教区は1939(昭和14)年、田畑になっていた光琳寺の跡地を購入し、1951(昭和23)年に「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる」聖堂として乙女峠記念堂を建立しました。同じ年、長崎の永井隆はこの歴史を綴った『乙女峠』を刊行しましたが、これが彼の絶筆となりました。この浦上四番崩れのときに信徒の代表格であった守山甚三郎(伝道士)の家は、永井博士の如己堂から100メートルほどのところにありました。
1868年から1872年までの4年、林太郎少年が、この光琳寺で起きていたことについて、何を見、何を聞き、何を感じたか、全く分かっていませんし、資料も見つかっていません。しかし、鴎外の作品、殊に乃木希典の明治天皇への殉死(日露戦争には鴎外も軍医として責任ある立場で共に関わり、脚気の原因についての見識の不十分さによって被害を出す失敗をしています)に衝撃を受けて書いた「興津弥五右衛門の遺書」から始まる歴史小説の作品群には、「martyrium」(「殉教」「献身」の意のラテン語で歴史小説「最後の一句」に書かれています)という主題の探求がはっきりと見えているのです。「興津弥五右衛門の遺書」「山椒大夫」「じいさんばあさん」「最後の一句」「高瀬舟」などを見ながら、鴎外森林太郎の奥深くに、いわば殉教者たちの〈呼び声〉があった可能性を探ってみたいと思います。(つづく)
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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