遂に七月十日の朝が来た ― 『氷点』入選発表の日

    遂に七月十日の朝が来た。早朝六時、店の雨戸がガンガンと叩かれた。新聞配達の人が、朝日新聞を一抱え持ってきてくれた。入選の記事がデカデカと出ていた。   
   今日くらいは休んでくれるかと思ったが、三浦はいつものように、弁当を持って勤めに出ていった。親、兄妹、親戚、友人、知人が祝いに駆けつけてくれ、新聞社や、雑誌社の人も訪ねて来る。祝いの電話がひっきりなしにかかる。遂に夜まで祝い客は絶えなかった。
   夕七時、予定通り第一回目の第二金曜家庭集会が、川谷先生の説教によって始められた。祝いに駆けつけた木工団地の少年たち、女学校時代の友人たち、近所の奥さんたち、親戚の人たちが先生の話を聞いて下さった。この、我が家にとって、大いなる祝いの日が、教会で定められた家庭集会の第一回目にあたっていたことを、わたしたち夫婦は意味深く受けとった。
   かくてわたしたち夫婦の、新しい歩みがここにはじまったのであった。     (『この土の器をも』)

   時が満ちる、という時が人生にはあります。光世さんが詠んだこのような歌があります。
   「旅の終わりの今朝見たる夢淋し生きよと三度君に告げゐつ」
   1956(昭和31)年7月のある朝のこと、光世さんは綾子さんが死んでしまう夢を見ました。それは、しんとした重すぎる淋しさでした。光世さんは実際に何かの旅行中で、それが終わる朝だったのでしょう。しかし、その朝終わったのは光世さんの少年時代、青年時代という旅だったのです。真剣に綾子さんの病の癒しを祈る光世さん耳に「愛するか?」という問いかけが聞こえたとき、彼は、結婚を決心することを促されていました。彼の人生はその朝、次の季節へ向けて、戻ることのない進みをしたのです。それは、光世さんの中の綾子さんへの愛の成熟と、綾子さんの成熟とが充分なものになり、そして神の計画の時が満ちた朝でした。一生に何度かあるこのようなときを、人はどんな気持ちで迎えるのでしょう。
   それから丸8年、次の時代が始まろうとしていました。しばらく前に、『氷点』が入選内定したという知らせは来ていましたが、発表の日はやはり特別な日でした。
   「遂に七月十日の朝が来た。早朝六時、店の雨戸がガンガンと叩かれた。」
   綾子さんの興奮と緊張が伝わってきます。人生の一つの時代が、未知の世界と大きな責任とが開かれ始まろうとしていました。戸が叩かれる音、もう眠っている時間ではない、さあ戸を開けて、出ておいでと、呼ぶ声が激しく、その朝聞こえたのです。
   届けられた一抱えの朝日新聞、それは大きな花束のようにも見えたでしょう。人生の特別な日でした。なのに、光世さんときたら、休んでくれるかと思ったのに、いつものように、弁当を持って勤めに出ていってしまいました。これが光世さんでした。光世さんの信仰であり謙遜であり、また証しでもありました。それぞれに備えられた道があり、特別に見える日も、何の特別なことのない日も、同じように、歩むべき道を驕りなく歩み、平安と静かな喜びと感謝のうちに働く、それが〈土の器〉としての心だと、夫は妻に示してもくれたのです。
   予定通りの家庭集会もそうでした。特別な人ではない、近所の人、知り合いが集い、川谷先生が聖書のお話しをする、当たり前な集会でした。でも、それが「予定通り」のものであったように、『氷点』入選も「予定通り」であったのです。
   これらをすべて、「意味深く受け取」る者たちは、幸いです。全く新しい歩みも神の「予定通り」であることの安心と感謝に満たされて、平安であるからです。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。