太宰治『黄金風景』を読んで

                    ※『津軽』の幸福なカタストロフ “たけと修治”の像    青森県北津軽郡中泊町小泊

   今日6月19日は太宰治の誕生日です。1909(明治42)年、塩狩峠で長野政雄さんの殉職事故のあった年に生れています。30年近く前に発表した太宰治の短篇小説「黄金風景」についての論文(解説)を載せます。三浦綾子研究者になる前は太宰治と志賀直哉を主に研究していました。少し長くて、私の若さが感じられる難しさもありますが、笑っておゆるしくださって、2以下の良いところだけお読みいただけると感謝です。作品は新潮文庫の『きりぎりす』などに収録されています。インターネット検索すると「青空文庫」としても出てきますので、ただで読めます。小春日の光が射すような中期の良い作品です。ぜひお読みください。

 

       太宰治『黄金風景』を読んで  -  祈りの詩学のために3        森下辰衛

 目次
           1物語る/彷徨う猫 
             2生誕風景
             3転回と救い
               4「黄金風景」

1 
   『黄金風景』は昭和十四年三月二日から三日にかけて『国民新聞』に発表され、その後同年七月砂子屋書房より刊行された作品集『女生徒』に収録された。『黄金風景』は「海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて ― プウシキン ―」というエピグラフを持っている。このプウシキンは劇詩『ルスラーンとリュドミーラ』の「序詩」からの引用であることが既に指摘されている(注1)が、この「序詩」の引用された後の部分は次のようになっている。

  昼も夜も物知りの馴らされた猫が
  鎖につながれてそのまわりを絶えず歩きまわる。
  右に歩いては歌をうたい、
  左に行ってはお伽話を語る。
    (略)
      海辺で私は緑の樫を見た。
  その下に坐ると、物知りの猫が
  私に自分の物語を語ってくれた。
  その物語を一つだけ覚えている
  その物語を私は今世に伝えよう…… (注2)

 金の鎖はなめらかに優しい肌を持つ。ほの明るく懐かしく、しかし時に薄暗い冷たさで輝きつつ、身に絡みつく。それは遥かな幼時の記憶の鎖であろうか。しかし思い出は熟酵して物語となり、ついに終末/救いに至らざれば止まることを得ないのである。
 『千夜一夜物語』のシャハラザードよろしく物語る奴隷たる猫が「つながれてそのまわりを絶えず歩きまわ」らざるをえない「緑の樫の木」とは何か。それは文学の故郷というものではないだろうか。その下に留まるならば憩いを得させる豊かな緑と、しかし他面、余りに堅い幹をも持つ樫の木。その周りを絶えず歩き回る。それが太宰にとっての望郷の文学であったのだろうか。そして、絡みつく鎖を引きずりながら物語を紡いでゆく猫。この猫は勿論書く者としての太宰自身と見てよいであろう。つながれていることによって離れることは叶わず、しかし、またそのつながれてあることによって同一化することも出来ない。中途な距離感の中を彷徨う。そしてよく似た軌道を無限に描きながら、繋留するものを問い、また同時に自己自身を問うてゆくのである。
 もしもどこかに出口があるとしたら、歌を歌いお伽話を語ることそのものの中にしかない。しかしそれは充全な意味で「中に」とは言いがたい。それは紡がれる物語の間隙にであり、鎖から解き放たれると同時に、緑なす樫の木と融和するものでなければならないのである。

 私は辻音楽師だ。ぶざまでも、私は私のヴアイオリンを続けて奏するより他はないのかも知れぬ。汽車の行方は志士にまかせよ。「待つ」といふ言葉が、いきなり特筆大書で、額に光つた。何を待つやら。私は知らぬ。けれども、これは尊い言葉だ。唖の鴎は、沖をさまよひ、さう思ひつつ、けれども無言で、さまよひつづける。(『鴎』)

 衰残の辻音楽師は「さまよひ」のうちに、そして止めどもなく繰り返されつつ消散してゆく奏楽のうちに「ひそひそ聞こえる。なんだか聞こえる」ものの訪れを「待つ」ことを始める。
   作者が目にするのは、目をそむけることも出来ずそばに留まることも出来ぬ或る冷やかな不動性だ。それは、いわば、空気もなく光もない、空間の内部でのある飛び地、ある保留地のようなものだ、そしてそこには、彼の一部が、更には彼の真理が、彼の孤独な真理が、理解しようもないある隔離状態のうちに窒息しているのだ。彼はこの隔離状態のまわりを、彷徨することしか出来ぬ、ある説明し難い作業、ある離脱によって、あるいは、極度の待望によって、突如として再び環の中におのれを見出し、そこでその秘やかな法則と再び結ばれ和解する時までは、彼に出来ることと言えば、その彼方には空虚で非現実的で永劫の苦悩しか見わけられぬこの環の表面に対して、強く身を押しつけるくらいが関の山だ。(注3)
   かくして〈書くこと〉は〈書かないこと〉を、〈書かれたもの〉は〈書かれたのでないもの〉を目指すであろう。


 1聖書

 物語は全体として、前半と後半、「子供のとき」のことと「一昨年」のことという構成になっている。前半では子供のときにお慶という女中をいじめたこと、後半はそのお慶の一家が零落した主人公=語り手の「私」を訪ねてくる話になっている。
   この前半と後半は幾つかの対照性を持っている。一番大きいのは「私」の状況の違いである。子供のころには「大家」の子息として「のろくさい女中」に無理を言い付けたり、冷たい言葉を投げ付けたりしているのが、後半では「私は家を追はれ、一夜のうちに窮迫し、巷をさまよひ、諸所に泣きつき、その日その日のいのちを繋ぎ」「病を得」「頭もほとほと痛み疲れてゐ」るのである。かたやお慶のほうは「品のいい中年の奥さん」になっている。つまり立場が逆転したのである。「私」は零落し、お慶は社会的な階級はともかく人生の成功者と言ってよいだろう。
 前半と後半は、原因結果の関係として、悪因悪果、善因善果と読むことも勿論できる。女中に対して横暴を働いた「私」は零落し、主人の冷酷な仕打ちにも誠実と従順をもって仕えたお慶には幸福な家庭が与えられた。しかしそれは単に因果応報、勧善懲悪のシステムの作動のように見えてそうではなく、罪とその結末および救いの物語となるのである。
 前半は故郷での出来事であり、後半では「私」は異郷に住まう流浪の身、故郷を離れた寄留者である。それは場所の違いであるが、金木と船橋との地理的な二点間の距離を測ることによっては、その本質的な距離を知ることはできない。ここには大きな時間的断絶も重なっているが、それは距離というより断絶というべきで、例えば『満願』や『富嶽百景』、『走れメロス』といった作品には見られないものである。その隔たりは、経る星霜の遠さよりも越えがたく遥かで、別種の時間と言いたいほどだ。すなわち前半と後半は別種の時空間として措かれている。前半が描くところを原郷での罪という意味で原罪と呼ぶことができるとすれば、貴い者であるはずの「私」は、他に恵みを届けるということを忘れて傲慢に陥る時に楽園から追放されるのである。窮迫と瀕死の苦しみはたちまちに追い来たり、死の定法の下に置かれた者が刑を逃れる道は既にない。しかし、人間をエデンの園から追放した神が、肉体を持った人として地上に来たりて、悔い改めと救いの道を開くのと同様に、故郷は原罪を示すと共に彼に救いを与えるために訪れるのである。
 ちょうど聖書に於いて、新約の十字架の光によって旧約の世界が照らし出され、それによって、聖書全体が物理的時間を軸とした因果関係的な順序を超越した書物となるように、この作品では、物語の終末となる〈黄金風景〉が光源となって、原罪風景としての幼時の記憶を闇の中から掘りだすのである。すなわち、物語は本質的には終末から語られている。こうして、この作品は聖書全体を視野に入れつつ、しかし殊に新約聖書のイエス・キリストの生誕の記事をクリシェとして描かれている。 

 2生誕物語 

 「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と『葉』のエピグラフにあるが、貴種流離という観点で見ると、「私」は選民の零落、荒野への追放、苦難の歴史の先端にいるのである。それはイスラエルの歴史を髣髴とさせる。イスラエルは神に選ばれた民として、すべての民族に神からの祝福を届ける役割を担うべき民族であったが、その背信と傲慢のために、王国は分裂と滅亡、補囚という苦難の道を歩まされることになる。旧約聖書はその歴史を描くが、それと共に死の影の谷を歩く民に光が照るようにして、救い主が与えられることを預言するのである。
   新約聖書は旧約の預言の成就を告げる書であるが、その救い主の誕生について、『ルカの福音書』は次のような記事を掲載している。

 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。      (『ルカの福音書』二章一節~七節)

 「そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、痩せて小柄のお巡りが」来訪するところから後半は始まる。「お巡り」の言葉には「強い故郷の訛があつた」とあるが、この強く匂うような故郷は、貧相で、しかしその「痩せた顔にくるしいばかりにいつぱいの笑をたたえて」近づいて来る。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく」と預言される、救い主と聖家族の田舎臭い平凡さが現われているのであろうか。
 シチュエーションとしての戸籍調査は福音書の住民登録に対応している。ヨセフとマリアがベツレヘムに行くのは、それが先祖の地であり、また救い主がダビデの末裔のうちから、ダビデの村で生まれるという預言が成就するためである。ベツレヘムでヨセフとマリヤは①ダビデの家系であることを確かめ〈故郷の確認〉、②その故郷の町が自分たちを受け入れてくれないことを知り〈聖性の拒絶〉(もしくは疎外された者のメシアという性格づけ)、③そしてそこで救い主の顕現を見る(体験する)こと=〈救いの訪れ〉になる。
 戸籍調査もしくは住民登録とは、人がその起源において何者であるのか、すなわち「私とは何か?」という究極的な問いであるが、作品では主人公が登録のために故郷に帰るのではなく、故郷の方が戸籍調査と称して、「私」に自らを確認させるために突如来訪するのである。そして「私とは何か?」という根源的な問いが「私」に対して問われるのであるが、その時故郷と罪とは呪いのごとく深く結び合いつつ、裁きとして彼に迫り来る。しかしこの来訪するお慶の家族が象徴する故郷の中にしか、救いもまた存在しえないのである。

 外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のやうに美しく並んで立つてゐた。お慶の家族である。私は自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声を発した。

 「来たのですか。けふ、私これから用事があつて出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においで下さい。」

 お慶一家の来訪は「お巡り」が来た日から「三日たつて」となっているが、「三日」は〈復活〉もしくは〈よみがえり〉の日という意味を象徴的に蔵している。故郷というものの〈よみがえり〉、そして同時に「私」の生命の〈よみがえり〉が暗示されるのである。この家族の服装は父と母が「浴衣」で女の子は「赤い洋服」である。父母の服装は庶民性を表徴しているが、女の子の「赤い洋服」はメロスの緋のマントと同様、十字架に架けられる時のキリストの緋のマントを暗示する。この女の子、一言も喋ることもないこの女の子こそ、この作品におけるキリスト、すなわち救いの鍵なのである。
 それに対して私が発した「自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声」は私の表層意識以下のところでの反応である。ズキンと来る痛みに思わず跳びのくような、反射的な拒絶である。聖家族の来訪を拒否する図である。宿を貸さなかったベツレヘム、また人間の罪性はイノセントなものに照らされることに耐えられない。その光は彼の罪をはっきりと照らし出してしまうものなのである。キリストが救い主として世に来るということは、人の罪の一切を照らし出し、その心に堪え難い疼きを与えることでもある。「来たのですか。(略)またの日においで下さい。」という「私」は、その馬鹿がつくほどに純粋にして単純な誠実さの前では、イエスに「もう私たちを苦しめに来られたのですか」(『マタイの福音書』八章二十九節)と言う悪霊に似ている。


 1お慶の転回

 私はのろくさいことは嫌ひで、それゆえ、のろくさい女中を殊にもいぢめた。お慶は、のろくさい女中である。林檎の皮をむかせても、むきながら何を考へてゐるのか、二度も三度も手を休めて、おい、とその度毎にきびしく声を掛けてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持つたまま、いつまでもぼんやりしてゐるのだ。

 私はほとんどそれが天命であるかのやうに、お慶をいびつた。いまでも、多少はさうであるが、私には無知な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ。

 嫌悪感というものは、どれほどその性質が我が身に避け得ない不快感として応えるかということであり、多くは自己自身のうちに近しい性質を持つと意識される時に大きくなるように思われる。彼は自分の中に魯鈍性が存在することを許せなかった。のろくさいことが生理的に嫌であった。彼はお慶という女中によって自分の圏内に魯鈍が侵入するとき、それを徹底して排除したく思った。その時彼はお慶を他者として見ていない。自己の一部なのである。それゆえ彼は「きびしく声を掛け」、「妙に癇にさはつて、おい、お慶、日は短いのだぞ、などと大人びた、いま思つても背筋の寒くなるやうな非道の言葉を投げつけ」、お慶は「いちいち私に怒鳴られ」るのである。それは他者を他者として認め尊重しない暴君的態度である。「走れメロス」において王デイオニスがその透徹した理性と倫理感のゆえに「人間の腹綿の奥底が見え透いてなら」ないために、多くの臣民を殺していったのと似ている。王は王として国の上に君臨すると同時に国全体に対して責任を持つのであり、王がその国に対して責任感を強く持てば持つほど注意深く監視し、また厳しく罰することになるであろう。ここで「私」がお慶ののろくささを許せないのは、「私」がお慶に対して無意識の内にも自己の責任の圏内にある存在として見ていたからである。

 私は遂に癇癪をおこし、お慶を蹴つた。たしかに肩を蹴つた筈なのに、お慶は右の頬をおさへ、がばと泣き伏し、泣き泣き言つた。「親にさへ顔を踏まれたことはない。一生おぼえてをります。」うめくやうな口調で、とぎれ、とぎれさう言つたので、私は、流石にいやな気がした。

 「親にさへ顔を踏まれたことはない」とは、「私」が親も入りこまない所まで侵入したことを示す。それゆえお慶が「一生おぼえてをります」と言うとき、「私」には仕打ちに対する〈恨み〉として投げ掛けられるのであるが、しかしお慶にとっては変化しえない〈恨み〉ということではなく、むしろ後には「目下のものにもそれは親切に目をかけて下すつた」という意識に変化してゆくことになるのである。それはお慶にとっては自分の人格の中の今まで侵入されることのなかった深みにおいて他者に接触される経験であり、その経験の深さと衝撃はそのままに評価の正負の符号が逆転してゆくのである。

 「子供がねえ、あなた、ここの駅につとめるやうになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末のが八つでことし小学校にあがりました。もう一安心。お慶も苦労いたしました。なんといふか、まあ、お宅のやうな大家にあがつて行儀見習ひした者は、やはりどこか、ちがひましてな。」

 「お宅のやうな大家にあがつて行儀見習ひした者は、やはりどこか、ちがひましてな」という言葉は、それが皮肉として言われていないだけ、余計に凄まじい皮肉、断罪として楔のように「私」の胸に突き刺さって来ただろう。しかしここに言われるお慶の「苦労」とは何であろうか。お慶は男二人女二人の計四人の子供を産み育てて来たが、その「八つでことし小学校にあが」った末の女の子は、「女中のころのお慶によく似た顔をしてゐて、うすのろらしい濁つた眼でぼんやり私を見上げてゐ」るような子である。つまりお慶は「女中のころのお慶」を養い育てねばならなかったのである。この子を育てたお慶はその「うすのろ」を嘆き、悲しみ、痛み、そして時には苛立って冷たい言葉を投げ付けもしたであろう。しかしそこには胸が裂けるような痛みを伴う親としての子への愛があった。お慶は自身の中に親としての愛を体験し、またそこから出てくる苛立ちや冷酷な言葉を投げることも体験する。お慶はそういった中を通りながら、かつて女中のころに自分の顔を踏んだ「私」に対する考えを変えたのである。「私」の横暴や冷酷の裏に、彼女自身が子に対して抱いた痛むような親の愛を見出だしたのである。彼女はその親よりも深く踏み込まれたという体験を、蹂躙から愛へと、親よりも深い愛へと読み替えた。土足で踏み込まれて印された足跡に輝いているものを見出だした。ネガはポジに反転し、恨みは感謝に変わる。そしてこの転回の中心は「女中のころのお慶によく似た顔をしてゐて、うすのろらしい濁つた眼」をした子なのである。それは聖家族の中の幼いキリストである。キリストはその十字架の光によって過去と未来と現在とを永劫に貫く。お慶の屈辱的な過去の事件はその光によって照らされ、お慶にとってはむしろ原初的な恵みとして新たに立ち顕れる。 
 象徴的に描かれたひとつの事件/体験が一方では呵責の種となり、他方では救いの種になるのである。その体験は「私」の内では成長して救いに至ることはなく、むしろ罪と滅びが熟してくるのであるが、同じものが「お慶」の中では別の訪れによる転回を得て、ついには「私」の許にも救いとして訪れることになる。それらは成長ではなく訪れなのである。しかも今まで知らなかったものではない、痛いほどよく知っているものが訪れるのである。その訪れは始めは好ましくは思われない、歓待し得ないものであるが、しかしそれは次第に、そしてある時、瞬間的に、その好ましくないところがそのまま裏返しになるようにして、救いを与えることになるのである。   

 2「私」の転回

 容(ゆる)せないという傲慢は滅びの種として「私」の中に深く食い込んでいる。「泥の海のすぐ近く」で呻吟しているその焼けるような痛みは、「堪忍ならぬ」ということに発している。それは裏を返せば「ねばならない」という当為の裏面に記載される禁止の儀文である。それは人を殺す。それを当てはめられる人もそれを信奉してゆく人をも。そして「私には無知な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ」「いまでも、多少はさうであるが」とあるように、信奉度の弱化こそあれ、「私」は今もその儀文を保持しているのである。
 〈のろくささ〉というものに負の価値付けをする、〈客観性〉という視点が決定的に転回せねばならないのである。『走れメロス』で「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」という冒頭の行に表された、王とメロスと二重に重なり合う、儀文を産む「邪智」が除かれねばならないのである。また、容そうとして容しえないということは『満願』に於いて、信じようとして信じえない「愛といふ単一神」という形で書かれていたものである。王もメロスもまた『満願』の「私」も孤独な存在である。係累の少なさや、自らの暴虐によって、あるいは裏切られることによって彼らは実際に孤独であるが、それ以上に彼らの孤独は、本質的には、一人で立たねばならない孤独、真の他者を持たない孤独、自己を超える存在を持たない孤独、そして愛されない孤独である。王は知恵と力とにおいて己れ以上の者を持たない。メロスには親がいない。『満願』の「私」は「愛といふ単一神」を信じることができない。そして『黄金風景』の「私」の幼時の風景は、専制君主としての「私」、幼い王しかいない、親なしの風景である。それゆえお慶が泣きながら『一生おぼえてをります』と言う時、彼はそこに初めて他者の抵抗感を感じるのかも知れない。
 絵本の観兵式の兵隊たちを切り抜いて「びしよびしよ濡れ」たお慶の手の汗は、種として彼に播かれて「寝巻をしぼる程の寝汗」になり、毎夜彼を悩ませる。締め木にかけられるような、悪夢の感覚。庭の隅の夾竹桃の花を「めらめら火が燃えているようにしか感じられない」という所には、漱石の『それから』の最後の部分を思わせるものがあるが、いずれにせよ、地獄の業火的なイメージと見てよかろう。それに対して「つめたい一合の牛乳」は冷たさと白さによって清浄さ、雪のような無垢性を感じさせる。そしてこの寝汗と牛乳は「毎夜毎夜」「毎朝毎朝」という修飾語の対句性によって、対照されている。赤と白の対比は「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」と『イザヤ書』にあるように、罪とその贖いの結果としての聖さのイメージである。 
 故郷の先触れたるお巡りに、まず「私はふてぶてしく答へ」るが、それがお慶の夫であることが明かされるとき、「私」の「罪人、被告、卑屈」の性質が浮上してくる。「私」にはひどい屈辱感と、自己の零落をどんな形にせよ見下げられることへの恐れがある。愛されることを知らない者は、裁くことと裁かれることしか知らない。そんな時、「私」には〈卑屈さ〉と〈ふてぶてしさ〉という二種の態度しかないのである。故郷に対して、あるいは他者に対して、永遠の他者に対してそのような在り方しかできないのである。そういう点から見ると、この父ヨセフとしての「お巡り」はまた、この傲慢な者に罪の悔いを与え、救い主の到来の備えをさせるバプテスマのヨハネをも思わせる。
 「私が仕事のことよりも、金銭のことで思い悩み、家にじつとして居れなくて、竹のステツキを持つて、海へ出やうと、玄関の戸をがらがらあけたら」、そこにお慶の一家が居る。尻からジリジリ焼けてくるような憔悴と辛酸とに呻苦し、しかしそこから出ようと意志する時に、故郷より遣わされた救い主の家族は戸口に立っているのである。
 その「女中のころのお慶によく似た」子を見た時「私」は罪をはっきり示される。こんな子供を罵倒し冷酷に扱い暴力までふるったという過去の息苦しい記憶が、ありありとその子の顔から「私」に向けて映し出され、その拭い去り難い罪が突き付けられてくる。そのとき「私はかなしく」て耐えきれず、「逃げ出す」。「私」は己が疎外したことによって〈疎外された〉者の姿をそこに見る。それは「女中のころのお慶」であり、今では他からも自己からも疎外されている自分自身なのである。故郷の家から無知で魯鈍の者として追放された自分、その自分の中の「うすのろ」を受け入れることのできない「私」。そのままで自分自身を愛することのできない「私」がその女の子に見るものは、誰にも受け入れられない「私」自身の姿なのである。しかしそれは今は〈かなしみ〉となる。苛立ちや堪忍できないという想いではなく、〈かなしみ〉となるとき、「私」はこの女の子を自己自身の痛みとして受け取るのである。
 町で絵看板や飾り窓という表層的なものや装飾的なものを見るのは、取り繕いや何かの武装をしようとする無意識的な心の反作用の働きであろうか。また、「私」は海辺をさすらっている時、負けまいして、自らをなんとかして鼓舞してゆこうとするが、他方ではもう負けは明らかで、処罰のことさえ考えているだろう。王は敗けることができない。敗けることは死ぬことだ。儀文を棄てることは廃帝となることである。しかしその目の前には、容すならば赦されるという故郷への帰り道が出来てもいるのである。彼は自らその道を踏み行くことはできない。ただ、まず先に〈赦される〉ことによってのみ、溶かされるのである。
 本質的な彷徨はいつも、人を未知の〈内奥〉に連れて行く。「私」はお慶一家に裏側から近付くことになる。しかし、そこにも予期されたような裁きはなく、信実と愛とばかりがあった。罪の影を宿すような赦しの言葉すらもなく、「昼飯も食はず日暮頃までかかつて」切り抜きをしたのと同じ、愚鈍な程の従順と信頼があるばかりであった。

 「なかなか、」お巡りは、うんと力こめて石をはふつて、「頭のよささうな方ぢやないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ。」

 「さうですとも、さうですとも。」お慶の誇らしげな高い声である。「あのかたは、小さいときからひとり変つて居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すつた。」r

 この訪れは救い主の生誕のことと重なる。された横暴な仕打ちを全部憶えていて、しかしその中にその零落したかつての主人の罪と罰を見るのではなくて、そこに愛を見出だすことによって逆に最も価値高いものとして見積もってゆくのである。価値なき者、罪深い者、己れを迫害する者を赦し、そのうちに最大限の価値と可能性を見いだしてゆくというキリストの愛の性質が顕現する。かくして汚い家畜小屋に救い主は生まれる。

 私は立つたまま泣いてゐた。けはしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去つてしまふのだ。

 負けた。これは、いいことだ。さうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与へる。

 この文の区切りの多さは各文節の一つ一つの独立性を強める。詩的な効果として語に余韻を醸す余地も与えるが、意識の流れの表現として、認識が一語一語を探るように辿り、そして言葉は確かめるように発される。雪が暖かさに逢って解けるように、〈溶ける〉という感覚の中に〈負ける〉ことの幸いが捉えられる。中途のところでの「実はそんなに悪い子ではなかった」というような甘い慰めではなく、完全に〈負ける〉ことの幸いが語られるのである。儀文の鉄鎖は断ち切られ、故郷との和解が〈民衆性の勝利〉という点において微かに成立するとき、それはプーシキンの『ルスラーンとリュドミーラ』とも触れ合うのであろうか。


   うみぎしに出て、私は立ち止つた。見よ、前方に平和の図がある。
 浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のやうに美しく並んで立つてゐた。

 それらは「図」であり「絵」であると言われるように、絵画として捉えられるイマージュである。それは静止した、永遠性を持つ。故郷とキリストとが一致した、まさに黄金の風景。
 「泥の海のすぐ近く」は「塩の海」「葦の海」といった語と響き合う語感を持つが、人生がはまり込んだ実存に関わる泥沼、ぬかるんで足を捕られ難渋する精神の歩行の状態であろう。が、「泥の海」はもっと征服不可能な漠とした広さをイメージさせる。その泥の海の「うみぎし」の「平和の図」は「三七七六米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ」と言う『富嶽百景』と完全に通脈している。「黄金風景」は「単一表現」とほぼ重なりあう。
 『満願』では、冷たい麦茶、瑞々しく清い豊かな水の流れ、牛乳配達、青草原、風、「おはやうございます」という挨拶。そういった生命の瑞々しい潤いが外から入って来て、彼を癒す。そして夫の健康の快復を信じつつ忍耐し通した奥さんが「白いパラソルをくるくるつとまはした」姿が、「年つき経つほど」「美しく思はれる」ように、次第に「私」の中で永遠性を獲得してゆくことになる。そしてそれらは彼からは完全に外的な存在の訪れである。
 確かにそれは外からやってくる。自らのうちに蒔かれた種が、芽をだして成長し花を咲かせ、実を実らせるのではない。救いは成長によらない。訪れによるのである。しかし『黄金風景』においては完全な意味で外からではない。自らを通して他者の中に蒔かれたものが別の訪れによって転回することで、他者の中に救いとして成長したのちに還り来る訪れなのである。それゆえ、それは僥倖のごとき自己発見ともなる。
 〈書くこと〉のうちに降りてくる〈書かれないこと〉。エクリチュールの裂目から訪れるノン・エクリチュール。エクリチュールという彷徨を超脱してゆくものとしての黄金風景。エクリチュールの変質や変貌ではなく、またエクリチュールの中から発生してくるのでもない。外から訪れるもの。雪のように、光のように〈外から〉降ってくるもの。作品のエクリチュールを超えつつ、作品全編を貫く光。その光の訪れを待つことに、〈書くこと〉が祈りとなりうる根拠のひとつがあるだろう。

  注
 1 斉藤末弘『太宰治論序説』一九七九年四月・桜楓社
 2 『プーシキン全集1』川端香男里訳・一九七三年二月・河出書房新社
 3 モーリス・ブランショ「作品の空間と作品の要請」(訳は粟津則雄・出口裕弘訳『文学空間』・一九八三年九月・現代思潮社による)
 ※聖書の引用は日本聖書刊行会発行の『新改訳聖書』による。また、太宰の作品のテキストは筑摩書房『太宰治全集』(一九五五年)に拠った。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。