綾子さんからのお知らせ ー 10月12日の思い出

    1999(平成11)年10月12日(火)、二、三日前から血圧が下がり気味だった綾子さんは、この日血圧が更に低くなり、脈拍も少なくなってきたため、旭川リハビリテーション病院の丸山院長は、身内の方々に連絡するように勧められました。午前10時8分、同病院から報道機関に「三浦綾子さんの容体血圧低下傾向(50~60ミリHg)乏尿」との連絡がされ、午後には、身内が集まりました。14時過ぎから血圧・脈搏ともに急激に下がり始め、17時39分、旭川リハビリテーション病院201号室において多臓器不全のため綾子さんは亡くなりました。直ちに看護師によって遺体の清拭が行われ、18時、三浦綾子記念文学館事務局長・松尾幸人さんから報道陣に対し、「家族からお亡くなりになったと聞いた。間もなく自宅にお戻りになるのだろう」と説明がなされました。遺体を乗せた車に光世さんと綾子さんの弟が同乗し、18時18分病院を出でて同35分ごろに豊岡の自宅に到着。光世さんらは階下の客間に綾子さんの遺体を横たえました。その後、優佳良織工芸館館長・木内和博、三浦綾子記念文学館館長高野斗志美、元官房長官五十嵐広三らが三浦家を弔問しました。19時からの「HNKニュース7」(キャスターは北海道出身の森田美由紀ほか)で「作家 三浦綾子さん死去」と報道されました。弔問に訪れた菅原功一市長はインタビューに応じて、「厳しい病との闘いだったが、生きているような美しい寝顔だった。市民葬的な形で送り出すことも話として出てくるだろう」と語りました。北海道新聞からは号外が出ました。(参考:岩男香織氏作成「日めくり綾子」)

   その日、綾子さんのことも旭川のことも何も知らないで、福岡の自宅で夕食を終えた私は、自室で、特別な理由もなく少し古い日本の歌をCDで聴きながら軽い仕事をしていました。かぐや姫というグループのベスト盤のようなCDで、何曲か目に「あの人の手紙」という歌が流れました。歌は南こうせつさん、詞は伊勢正三さんで勿論何度も聴いてよく知っている曲です。
   テーマは先の戦争によって引き裂かれた恋人たちの悲劇の物語です。突然の赤紙によって愛する人を連れて行かれた悲しみ。戦場にいる大事な人が殺されるかも知れないという耐えられないほどの不安。そんな日々を、百合の花を飾りながら過ごしていた私のところに、突然その人は帰ってきました。驚きながら迎えた私を、その人は微笑んで抱いてくれました。でもすぐに時間は流れ、その人は再び出ていこうとします。この歌の最後のところは、こう歌われます。

でもすぐに時は流れて あの人は別れを告げる
いいのよ やさしいあなた 私にはもうわかっているの
ありがとう 私のあの人
本当はもう死んでいるのでしょう
昨日 手紙がついたの
あなたの 死を告げた手紙が

   ここまで聴いたときに、私は「ああーっ」と叫んで立ち上がっていました。分かったのです。
   「綾子さんが亡くなったんだ」
   それから心が強く騒ぎ、何分も経たない頃だったと思いますが、電話が鳴って、出ると大学の同僚の先生でした。
   「森下先生、もうご存知でしょうか?今、三浦綾子さんが亡くなられたとニュースで言っていますが」
   「そうですか。ありがとうございます。ニュースは見ていませんが、もう分かっています」
   「そうなんですね。知らせてくださった方がおられるのですね」
   その夜、私は、
   「ああ、この地上のどこにも綾子さんがいない。……もう綾子さんがいない世界になってしまった」
   という衝撃に沈みながら、他方で、私のような者のところにまで、綾子さんはお知らせに来てくださったのだ、と有り難く思いました。それからすぐに様々なものを整えて、翌13日私は旭川へ向かいました。綾子さんより40年後に生まれた私は、その日37歳でした。

   戦場から、自分の死の知らせを何らかの方法で送ってくれた人がいる。それを受け取った人は、自分もまた、自分の戦場に赴く覚悟をしなければならなくなる。そういうものかも知れないと、思わせられます。なぜ、何のために、その人は知らせてくれるのでしょう?義理でもなく、憐みでもなく、それは最後の何かの“証し”のためであり、だからこそ、同時に招きにもなってゆくものなのかと思います。
   兵士が戦死すると、市町村役場の兵事係から「戦死公報」(「死亡告知書」)が届きます。激戦地では遺骨が戻ることはまれで、骨箱に入っているのは木や石であることも珍しくありませんでした。

※下の写真は函館本線近文ー旭川間にある第2石狩川橋梁。上の写真は旭川市神楽の外国樹種見本林のどんぐり。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。