もう一つの『銃口』-『松本五郎・菱谷良一「無二の親友展」図録』(増補版)紹介

生活図画事件

 太平洋戦争中の昭和15~16年、北海道生活綴方連盟事件と共に起きた生活図画事件をご存知でしょうか。『銃口』の参考資料中にも、旭川師範学校(現・北海道教育大旭川校)美術教師であった熊田満佐吾の『青年の顔-美術教師の80年』(1991年)や、北海道教育大旭川校教授の小田切正による『戦時下北方美術教育運動』(1974年)があり、『銃口』作品中では三浦綾子は生活綴方連盟事件の方を中心に描いていますが、生活図画事件もよく調べて、参考にしていたことが分かっています。三浦綾子がもっとも多くの取材をした人の一人鏡栄も熊田の指導を受けた美術部員でした。また、中には両方の事件に関わった教師もいました。
   生活図画教育は、1932~40年、北海道旭川師範学校の熊田満佐吾、旭川中学校の上野成之とその教え子たちが実践した美術教育です。子どもたちに、身の回りの生活を見つめて題材を選び、自らと現実の生活をより良く変革することをめざす絵の教育でした。しかし、戦争を推し進める当時の国家権力はこうした考えを危険視し、41年北海道綴方(つづりかた)教育連盟への弾圧に次いでこれらの教師たちを弾圧しました。これが「生活図画事件」と言われています。
 熊田は「リアリズムの図画を通してその時代の現実を正しく反映させなければならない」として「美術とは何か」「美術は人間に何をもたらすか」を学生に討論させ、働く人々を描かせました。
 上野は、31~35年に続いた大凶作の現実に生徒の目を向けさせ、「凶作地の人たちを救おう」「欠食児童に学用品を送ろう」をテーマに美術部員にポスターを共同制作させました。これらの実践は、32年旭川中等学校美術連盟の組織へと発展、卒業生は「北風画会」を結成し毎年、旭川市内で展覧会を開き、市民に親しまれました。
 教師となった卒業生は、生活図画教育のみならず、生活綴方にも取り組み、アイヌ差別やいじめの解決、地域青年団の活動など、戦後民主教育の先駆ともいえる実践をしました。
 41年1月北海道綴方教育連盟の教師53人とともに熊田は検挙されました。師範学校は美術部員を取り調べ、卒業直前に5年生5人を留年・思想善導、1人(鏡栄)を放校にします。9月、特高は留年の5人を含む熊田の教え子(国民学校教師)21人、上野と教え子3人を検挙します。軍隊に入隊または入隊直前3人(判明分)は、後に憲兵に取り調べを受け、1人が虐待で亡くなっています。

 裁判では、稲刈り途中で腰を伸ばした農婦を描いた「凶作地の人たちを救おう」のポスターについて、「地主ト凶作ノ桎梏(しっこく)ニ喘(あえ)グ農民ヲ資本主義社会機構ヨリ解放セントスル階級思想ヲ啓蒙スルモノ」として処断し、これらの絵を総括して「プロレタリアートによる社会変革に必要な階級的感情及意欲を培養し昂揚する為の絵画である」(旭川区裁堀口検事)と断定。治安維持法の目的遂行罪として熊田を3年半、上野、本間勝四郎を2年半の実刑に、12人を執行猶予付の有罪としました。生活綴方と並んで戦前民主教育の一つの峰ともいえる生活図画教育を弾圧した80日後、日本はマレー半島と真珠湾に攻撃をしかけました。               ※参考 しんぶん赤旗2008・5・10(土)、宮田汎編著『生活図画事件』(自費出版)

坂部先生のモデルの一人横山真

   当時、十勝郡・大津小の教師横山真(まこと)は、新婚2カ月目の1940年11月20日、治安維持法違反で検挙され、2年半の長期勾留中、危篤状態におちいり仮出所、小康をえたのもつかの間、43年10月12日、腸結核のため亡くなります。28歳の若さでした。経緯から見て『銃口』の坂部先生のモデルの一人と考えられます。
 横山は、旭川師範学校を34年に卒業し、根室の厚床(あっとこ)小学校に勤めましたが、周辺は未開拓な原野で農民の生活は悲惨でした。長期欠席、欠食児童などを目前にして、若く多感な青年教師は悩み、生活のありのままをつづらせ、子どもたちに生きる意欲をもたせようと、35年に結成された道生活綴方連盟の創立にもっとも若いメンバーとして参加していきます。同年、横山は文集「ぶし―原野にきっと春は来る」のあとがきにこう書いています。

 「先生は月曜からびっしり一週間原紙を切った。指先までちぢみ上ってしまいそうな午前二時三時の夜気の中で、鉄筆をやすりの上に走らせながら、先生は色んなことを考えていた。暮から色々な出来事が先生のまわりにも起った。ほとんど耐え得ぬ苦悶(くもん)すら味わってきた。苦しくなれば先生はきまって民吉たちの綴方を読んでみた。『こんなことで苦しむなんて、何て意気地のない奴だ』と先生はいつも民吉たちの綴方から叱りつけられるような気がして、そうだ体のつづく限りはがんばるんだ。そう思えば不思議にねむくも寒くもなくなる先生だった。民吉たちよ、お前たちはなぜこう都会の子どものように、明るい生活が恵まれてこないのか。暖かい生活がなぜ訪れてくれないのだ。どうしたら楽になれるのだ。それは先生にもわからない。だがこれでいいのか。これだけで魂の底まで苦しみ抜いたと言われるのか。苦しみの中をガスの中を、じっと耐えてゆく生活の何時かは原野にだって春が来るにちがいない」

 旭川師範の恩師で自身も「生活図画教育運動」で弾圧された熊田満佐吾(まさご)は、横山からこの文集を送られ、「この子どもたちに対するひたむきな愛情はどうだろう。このあとがきを読むと私は今でも感動を覚える」と書いています。
 旭川師範の学生時代、横山は、美術部の委員長をし、道展で入選するほどの描き手で、生活綴方と生活図画の両面にまたがって実践するなかで、命を奪われたのでした。北海道教育大学の故小田切正教授は「このように優れた教師である横山らの掘り起こしと顕彰を今後いっそう行わなければならない」と語っています。     ※参考:しんぶん赤旗 2006・6・8(木)

 無二の親友

   この「生活図画事件」で、当時逮捕・投獄された旭川師範学校(現北海道教育大旭川校)の同級生2人が、一年前の2019年11月、共同絵画展「無二の親友展」を札幌市西区の「ギャラリー 北のモンパルナス」(企画:田中みずきさん)で開催しました。その時の図録(新聞記事なども入れた増補版・カラー24ページ)を、企画された田中みずきさんから最近頂きました。
   2人は、1920(大正9)年生まれで音更町在住の松本五郎さんと1921(大正10)年生まれの旭川市の菱谷良一さん。当時、師範学校5年生で19歳だった2人も生活図画事件で検挙されました。冬は氷点下30℃にもなる独房に入れられた二人は入浴の際に、看守の目の届かないお湯の下で足を蹴って励まし合いました。
 2人は1年3カ月に及ぶ勾留を経て執行猶予付きの有罪判決を受け、師範学校を退学処分になりましたが、絵筆を握り続けました。戦後も、事件に関しての証言を避けていましたが、近年の共謀罪の新設や特定秘密保護法施行の状況に「戦前回帰の危機」を感じて、講演会などで証言して来られました。

   図録には2人の略歴、肖像写真、肖像画は勿論、事件時拘留中に松本さんが描いたちぎり絵や事件後に「赤呼ばわりされた」菱谷さんがわざと妹の赤い帽子をかぶって描いた反骨精神溢れる自画像など、これまでの代表的な作品の図版が収録され、旭川師範学校美術部で2人を指導した熊田満佐吾先生の略歴と作品も紹介されています。
   2014年、松本さんを紹介した新聞記事を読んだ田中みずきさんが事件のことを知り、松本さんに手紙を送って文通が始まり、松本さんを通じて菱谷さんとも交流するようになりました。田中さんは、事件の罪深さと、弾圧に負けず芸術に向き合ってきた人たちを知って欲しいとい思いで、最初で最後の共同2人展を企画しました。この展覧会では、熊田満佐吾先生の油彩画3点も含めて60点が展示されました。

   残念なことに、松本五郎さんは先週の土曜日2020年10月24日に肺炎のため亡くなられました。99歳でした。帯広の隣音更町にお住まいで、ミニ全国大会として帯広市図書館で『銃口』シンポジウムを開いた2017年の夏のプレイベントでは、とかち読書会の方々が中心になって開かれた講演会でお話ししていただいています。
 松本さんは旭川師範学校の学生だった1941年、美術教育運動「生活図画」の影響を受けて勤労動員の休憩中に寝そべって話す学生の姿などを描いたところ、特高警察に「共産主義を啓蒙(けいもう)する」と判断され、治安維持法違反容疑で逮捕。1年余にわたり勾留された後、執行猶予付きの有罪判決を受けました。
 戦後は住民に請われる形で十勝地方などで教壇に立ち、下音更小校長などを歴任しました。
 当時のことは長年話されませんでしたが、安倍晋三政権下で共謀罪の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正や特定秘密保護法制定などが進むのを憂慮し、講演活動を開始。2017年6月に毎日新聞の取材に応じた際は、改正組織犯罪処罰法を「内心の自由を踏みにじり、国民を萎縮させる。戦争に突き進んだ体験の反省がなされていない」と批判しました。18年3月の帯広市での講演では「遺言のつもりで『戦争は駄目だ』と叫び続けたい」と話していました。
 松本さんとともに投獄された菱谷良一さん(98)は、松本さんを「兄貴」と慕い、「世相を正しく見抜く知性があり、皆に慕われた」と振り返る。8月下旬に音更町の病院に見舞いに訪れ「これが最後」と抱き合ったとのこと。「生き証人は私一人になった。平和で民主的な日本が来るようにエールを送ることが、私にできる冥福の祈り方」と語りました。告別式は27日でした。
                     ※参考:毎日新聞2020年10月25日

 『松本五郎・菱谷良一「無二の親友展」図録』(増補版)は、まだ残部があります。札幌市西区の「ギャラリー 北のモンパルナス」(電話011-302-3993田中みずきさん)にお問い合わせください。

※下の写真は2017年帯広小全国大会の時に訪ねた新得の共働学舎の白樺。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。