ただ一輪の薔薇 ― 辻邦生の啓示
ルネサンス以来人間は〈疑いなさ〉と〈有効性〉(換言すれば科学と経済性)による人間中心主義の秩序を形成し、それによって精神的宇宙や神と共にある精神世界が衰退し、物質レベルに人間の全体が引き落とされてゆくことを経験しなければならなくなりました。世界はただ均一に延長する物理的空間であり、時間もまたそのようなものになりました。世界も人生も中心を喪い、価値や目的を自己のエゴイスティックな欲望以外に基礎づけることが困難になってゆきました。花は花という〈何か役に立つ機能を持った物〉にすぎなくなり、人間もまた同様になりました。それはやがて〈役に立たないものを絶滅させる〉アウシュヴィッツにつながる鉄道を敷くことでもありました。近代の知性たち、例えばゲーテやリルケやハイデッガーらはその危険性をそれぞれに予見していました。
辻邦生は1925年9月24日東京に生まれ、57~61年のフランス留学を経て、63年『廻廊にて』(近代文学賞を受賞)で本格的にスタートした日本人の作家(1999年没)ですが、彼の思想の基盤はリルケやトーマス・マン、プルーストなどを中心にしたドイツ、フランスの文学にありました。
1959年、辻邦生はパリ留学中に訪れたギリシャのアクロポリスの丘で決定的な経験をしました。それは、不思議な啓示の光に胸を貫かれるようなものでした。物理的に存在し功利性の原理に侵されながら時間と共に滅びてゆくしかないこの客観的世界に一個の物として私という生があるということの絶望的な過酷さを、それはひっくり返してくれるものでした。
ピレウスの港からバスに乗って、アテネのアクロポリスの丘に登った瞬間、彼は、アクロポリスの丘という地球の一点にパルテノンの神殿が置かれているのではなく、逆に、地球全体、人間全体がパルテノン神殿に包まれているのだと悟りました。そしてそれが美であり芸術の力だと確信しました。
芸術作品は一個の個物でしかない(木の枠に布が張ってありそこに絵の具が塗られている物であったり、インクのしみのついた紙の束だったり)ように見えて、そうではなく、私たちの生、私たちの世界、私たちの存在全体を包み、意味づけるものであり、その〈美〉を生きるときに、〈ひとつのもの〉が〈全体〉にもなると彼は考えました。その時に物質的なものでしかないものに墜落しかけていた近代の人間と世界の全体が回復されるのだと示されたときに、彼の中で、書くことの意味が見出されたのでした。
この経験を辻邦生は繰り返し述べていますが、私はまだ二十代半ばだったとき、出たばかりの『詩と永遠』(1988・岩波書店)で読んで、非常に感動したのを憶えています。この本で彼は続いて、このアテネ旅行から帰ったあとのパリの国立図書館での体験を書いています。
ちょうど、その秋、ビブリオテーク・ナシオナルのギャラリーで、豪華本の展覧会をやっていました。その中に、ライナー・マリア・リルケのフランス詩《Les Roses》がありました。たまたまガラス・ケースの中に開かれていた頁に次のような詩がありました。
Une rose seule, c’est toutes les roses. (注「ただ一輪の薔薇、それはすべての薔薇だ」) (略)
この最初の一行を読んだとき、身体が喜びではじけ飛びそうになりました。その瞬間「ああ、ぼくが探していたのはこのことだったのだ」と思いました。パルテノン神殿を見て感じた〈一つのもの〉が〈すべて〉を包むという考え方――それが、ここでは一輪のばらとすべてのばらという形で、実に美しく示されていました。(略)一つのばらがすべてのばらとなるのではなく、すべてのばらであるためには、一つのばらでなければならない――私は心の底からそう思うことができたのでした。(『詩と永遠』)
私は、1988年にこの辻邦生に出会いましたが、彼の永遠論、芸術による世界の転回論に影響を受けながら、求道して1990年にはキリスト者になりました。「パルテノン神殿」や「ばら」の代わりに、イエス・キリストを、滅びから永遠の喜びへの転回の中心軸に置いたのです。一人の人がいかに生きるかということは、その人一人のことには留まらないということ。キリストがたった一人で、神を示すと共にほんものの人間を証明されたということであり、その〈美〉が世界を包んでいる、と言わば読み変えたのだとも言えます。辻邦生は近代ヨーロッパの最も優れた精神たちに基盤を置いているのですから当然でもありますが、裏側にはハッキリとキリストの型が見えていながら、芸術をその中心に置き続けました。彼に近しい作家である(と言ってよいでしょう)福永武彦、小川国夫、加賀乙彦などはみなキリスト者であるか、あるいはキリスト者になってゆく人たちですが、辻邦生は彼自身の中に与えられた芸術の喜びのゆえに、その圧倒的な光のゆえに、信仰には行かなかった人でもあったのだと思います。でも彼のこの体験の型は、今日も希望として私に光を与えてくれます。また信仰に入ることなく、ちょうどそのすぐ外側で思索してくれているゆえに、キリスト教や信仰というものの内側にいるがゆえに気づかずにいる様々な面(良いものも悪いものも)を照らしてくれるものにもなっているように思います。
私も彼が衝撃を受けたリルケの「薔薇」の詩が好きです。「たった一本の薔薇」を「たった一人の馬鹿」と読み換えるとき、「たった一人の馬鹿」として自分の物語を生きることを励まされるのです。そして、物語を書く私に対しても、辻邦生はその基盤のところで明るい示唆を与えてくれています。物語の創作はいつでも最終的には全世界の回復と人類の幸福と永遠の喜びの方に向いているべきだと、変わらず教えてくれ、背筋を伸ばさせられます。世には多くの小説執筆入門の書がありますが、辻邦生の晩年の講演をまとめた『言葉の箱 小説を書くということ』(2000年・メタローグ)は、村上春樹の『職業としての小説家』と共に、私をやさしく励ましてくれています。
辻邦生の代表的短篇小説のひとつ「北の岬」は北海道宗谷岬を舞台にした物語で、加藤剛、クロード・ジャド主演で映画化(1976年・熊井啓監督・東宝)されています。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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