ハジマリニ老人ガ二人バスヲ待ツテヰタ - 『海嶺』の始まりの地・小野浦

   1968年5月21日名古屋のキリスト教書店・名古屋聖文舎の創立十周年記念の講演会が名古屋市昭和区の鶴舞公園にある名古屋市公会堂で開かれました。講演は岩村昇「ヒマラヤより高いもの」と三浦綾子「生きるということ」。このときの綾子さんの講演は初代秘書宮嶋裕子さんの労によって2004年に教文館から同名の講演録がCD付きで出版されています。
   その講演会の翌日5月22日、名古屋聖文舎の田中啓介さんが三浦夫妻を知多半島に案内し、美浜町小野浦の「岩吉久吉音吉頌徳記念碑」を訪れ、この三吉のことを教え、小説にしてもらいたいと頼みました。
   この記念碑は7年前の1961年4月5日に建立され、西ドイツのハース大使も出席して除幕式がおこなわれました。それにはこのような逸話が残っています。
   1960年の8月、熱い西日の照りつけるバス停でバスを待っていた一人の老人がいました。日本基督教団熱田教会名誉牧師で日本聖書協会嘱託でもあった高橋秋蔵師。高橋先生は天保時代この小野浦から出帆した宝順丸の乗組員であったこの三吉のことを調べていました。日本聖書協会の都田恒太郎総主事から3月に調査の依頼があったのです。この三人が世界初の日本語訳聖書であるギュツラフ訳聖書の成立に深く関わっていたことは既に知られていましたが、出身地のはずの小野浦での痕跡の捜索は、既に京都大学、名古屋大学が調査したものの不明だったという経緯もあり、難航していました。でこぼこ道を砂塵を捲き上げながら走るバスで、遠い道のりを何度も名古屋から通って来ていましたが、手がかりは掴めていませんでした。今日もダメだったと、バス停でバスを待っていた時、そばに同じようにバス待ちの老人が一人。その老人の方が高橋先生に声をかけて「どこから、なにをしに来られたか?」と訊いたのです。それから、この二人の間で交わされた会話は驚くべきものでした。何とこの老人こそ、かつて宝順丸を所有していた船主の家の旧当主樋口源太郎さんだったのです。源太郎さんは高橋先生に自分の家のこと、良参寺の過去帳のことを教え、案内しましたから、高橋先生のすべての労苦はこの日完全に報われたと言っても過言でないほどでした。そして半年余り後には三吉の碑が建立されたのです。

   天保3年陰暦10月11日(1832年11月3日)、宝順丸は小野浦の船頭樋口重右衛門以下14人の乗組員を乗せて鳥羽を出帆、江戸へ向かいました。しかし遠州灘で嵐に遭い船は帆も舵も失って14カ月の漂流ののち北米フラッタリー岬(現ワシントン州)に漂着しました。14人の乗組員のうち生き残ったのは岩吉、久吉、音吉の三人だけでした。住民マカハ族に捕らえられ奴隷とされていたところを英国の毛皮商社ハドソン湾会社のマクラフリン博士により救出され、ロンドンを経由してマカオまで戻って来ました。そこで出会ったのがプロシア人宣教師のギュツラフでした。ギュツラフは彼ら三人の協力を得て世界初の聖書の日本語訳(ヨハネの福音書、ヨハネの手紙)を完成。ヨハネの福音書の冒頭の訳文「ハジマリニカシコイモノゴザル」は有名です。三人はその後天保8(1837)年米船モリソン号により送還されることになりますが、鎖国時代であっただけでなく徳川幕府が出していた異国船打払令により、浦賀と鹿児島で砲撃を受け、船はやむなくマカオに引き返すことになったのでした。しかしこの事件をきっかけに幕藩体制は揺らぎ始め、16年後には撃たれた米国はペリーに四隻の黒船を持たせて浦賀に送ってくることになるのでした。

   田中啓介さんは、この日これらの物語を情熱をこめて語りました。三吉のことも、高橋先生のことも。そして綾子さんに「この奇しい三人の漂流と聖書翻訳の史実、ご作品の材料になりませんでしょうか」と求めたのでした。しかし、そのとき歴史小説を書いたことのなかった綾子さんは「とても私の手には負えない」と断りました。それでも、田中さんは諦めることなく祈り続けました。そして10年後、遂に『海嶺』は「週刊朝日」の1978年10月6日号から80年10月17日号まで連載(ただし80年5月30日号から8月15日号まで休載)されました。
   毎年、宝順丸が出帆した10月11日ごろ(変動あり)にはこの碑の前で、美浜町と日本聖書教会の一年ごとの交互主催により記念会が開かれています。
   物語はそれで終わりませんでした。1989年にはワシントン州フォート・バンクーバーに三人の記念碑が建てられ、1991年に美浜町長に就任した斉藤宏一さんは「音吉トライアスロン」やミュージカル「にっぽん音吉物語」などで町おこしを積極的に展開し、1997年には多くの町民とフラッタリー岬を訪問するツアー、1999年には音吉終焉の地であるシンガポールツアーも行われました。音吉がシンガポールの長老教会で受洗していることも確認され、ギュツラフのメアリー夫人と音吉の夭折した娘エミリーの墓が並んでいることも発見されました。
   一昨年2018年10月5日には小野浦のこの三吉の碑の近くに新しく音吉の像が建立され、シンガポール大使や三浦綾子読書会の方々も含めて二百人以上が出席し、除幕されました。
   小野浦から始まるこれらの物語の背後に、一人一人をそれぞれに用いて不思議で壮大な歴史(物語)を創る方のこと、「ハジマリニカシコイモノゴザル」という真理が見えて来るように思います。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。