神様の名を呼ばぬ時は お前の名を呼んでいる-茅ケ崎の八木重吉

   八木重吉は1898(明31)年2月8日 東京府南多摩郡境村相原(現町田市相原)で、八木藤三郎、ツタの次男として富裕な農家に生まれました。1917(大6)年、東京高等師範英語科に入学。親友の死を契機に求道し、1919(大8)年3月駒込基督教会で富永徳磨師により受洗してキリスト者となります。1921(大10)年3月家庭教師として、新潟県から東京に出てきて編入試験受験準備中の島田とみに出会い、惹かれ合うようになりますが、4月に重吉は兵庫県御影師範(現神戸大)へ英語教師として赴任します。離れてますますとみへの愛しさが増した重吉は内藤卯三郎の奔走によって1922(大11)年1月に婚約。結婚はとみの卒業まで待つ約束でしたが、とみが肋膜炎になったことから心配でたまらなくなり、7月に結婚しました。翌23(大12)年5月、長女桃子誕生、さらに翌24(大13)年12月には長男陽二が生まれました。明けて25(大14)年3月に千葉県東葛飾郡に新設の東葛飾中学校へ転任。千代田村柏(現柏市)に転居しました。8月には第一詩集『秋の瞳』を出版して好評を得、佐藤惣之助主宰の『詩之家』同人となるなど、詩人として順調な歩みを始めますが、状況はその冬に一転、年が明けた26(昭元)年正月の風邪が治らずにいたのが、3月には結核第二期であることが判明し、5月神奈川県茅ケ崎の療養所南湖院へ入院しました。

   茅ケ崎の結核療養所南湖院は、1899(明治32)年にクリスチャンの医師高田畊安によって開設され、最盛期には5万坪の敷地に14の病舎とさまざまな施設が併設されて「東洋一のサナトリウム」と言われました。1945(昭和20)年、高田畊安が亡くなり施設が海軍に全面接収されて解散となりましたが、現在も茅ケ崎市によって南湖院記念太陽の郷庭園として公開され、第一病舎を外から見ることができるようです。小樽高等商業で小林多喜二を教えた大熊信行、詩人の大手拓次、児童文学の坪田譲二、小説家の中里介山ら、多くの有名人も入院。国木田独歩はここで亡くなっています。
   重吉が入院して入れられた病棟は軽症病棟でなく、子どもは入れず面会時間も制限されていましたが、重吉は柏のとみに、会いに来てほしいとふるえる字で頻繁に手紙を書き、とみは柏から茅ケ崎まで通いました。
   ここからの時期に病床で書いた重吉の詩のノートには、死という運命との闘い、遺してゆく愛しい妻と幼子への思い、神へのひたすらな信仰をうかがうことができます。死と向き合う凄絶なその時間の中でも、重吉の言葉は純化されていきました。

これ以上の怖れがあらうか
死ぬるまでに
死をよろこび迎へるだけの信仰が出来ぬこと
これにました怖れがあらうか

 

この心をたれも知ってくれぬのか
この すべてを投げだしたくるしみ
神さまのまへに自分をほうり出したくるしみ
私が苦るしんでゐるとだけでも知ってくれぬのか

 

 

花はなぜうつくしいか
ひとすぢの気持ちで咲いてゐるからだ

 

基督になぜぐんぐん惹かれるか
基督自身の気持が貫けてゐるからだ   (ここまでノオト

 

 詩

上手でも下手でもなく
本当に私になり切ったもの

 

 鳩

もしも私が
鳩を創った者だったら
他に何もせずに死んでもいいと思われる

 

 鳩

あんな細い足がどうして傷つかないのだらう

 

 鳩

身体を丈夫にするために海岸へ行ったら
第一番に鳩をかわうと妻と話した       (ここまでノオトB)

 

長い命でないとおもへば
これから一生懸命に
力をつくして
神様を信じ
人を愛してゆこう      (ここまでノオトⅭ)

 

富子
二人で楽しかった時のこと
私の悪るかったこと
それが今はっきりと見つめられる

 

富子
私は独りでベッドの上にゐることがどうしても耐えられない

 

煉獄の日
煉獄の日

      

富子
神様の名を呼ばぬ時は
お前の名を呼んでいる

      

富子
私は病気して
お前を母のように思ってゐる      (ここまでノオトD)

 ノオトAの「花」や「基督になぜ」は重吉の詩の最も純化された精髄のようです。彼の生涯の代表作のひとつに上げてもよいものでしょう。ノオトBの「鳩」の連作(ここに上げたもののほかにも少しあります)の眼差しの優しさの深まり、富子を呼ぶノオトDの心、殊に「富子 神様の名を呼ばぬ時は お前の名を呼んでいる」は、愛の絶唱とも言うべきものでしょう。

   7月、南湖院近くの茅ヶ崎の十間坂に貸別荘を借り、とみは母と二人の子を連れて柏から引っ越しました。自宅療養となった重吉は次々と余病が出て衰弱するなか、第二詩集『貧しき信徒』の準備にかかりました。柏時代に作られた詩を中心に、ひとつひとつ重吉が選び、とみがそれを清書してゆきました。 

わが詩いよいよ拙くあれ
キリストの栄 日毎に大きくあれ

 

独り言ぐらい真剣な言葉があらうか

      

つきとばされて宙にぶら下がり
キリストと二人ぎりになったと思ったことは無いか

 

肺患者は 死を怖れぬ
むしろ死の苦しみを怖れる
否 死にいたる迄の近親者への済まない心に充たされる
否 児と妻への永い永い惜別を怖れる
否 尚心澄む日は
神と人々とに負ふ責務を果さなかった弱さに胸がふさがる

 

何はともあれ
私は死ぬる瞬間まで
生きる! といふ努力を捨てない

 

何も知らぬ桃子
何も知らぬ陽二
お前達を見ると
俺は泣く

 

后ゝの悲惨事を見まい為めに 自分で死ぬ様な事はせぬ(※「后ゝ」は「さきざき」で、遺される家族のこれからのこと)

 

どこ迄もやれ

 

ひとすじの道なり
キリストの道なり
我が弱気を強くするの道也

 

或る夜の夢
  モ――モ――コ――
  桃子
  桃子――、
  モモ子――、
  モモコ――、
  モーモーコーッ
  あー、
      桃子―、
      モーモーコーッ

 

にじみでる涙もある  (ここまでノオトE)

   このノオトEの「わが詩いよいよ拙くあれ」には驚かずにはいられません。詩人として信仰者として天に向かってすべてを脱ぎ捨てて突き抜けようとする、ひとすじにならんとする意思の清い強さがあります。そして、家族への素直な思いの吐露も、このような透明な粒が?と驚かされるばかりの純度、そして桃子を呼ぶ詩は圧倒的に斬新です。
   重吉はとみに、遺言のように語りました。
   「子どもたちを立派なクリスチャンにしてほしい。何よりも人間としてよき人間の育ててくれ。必ず手元において教育してくれ」
   妻は深くうなずきました。
   10月のはじめのある日のこと、突然手を上にさし伸ばした重吉は、そこにキリストの姿をありありと見るかのように、「主よ、主よ」と呼びました。それから二十日ほどののち、1927(昭2)年10月26日、暁闇の午前4時半、重吉は天に帰ってゆきました。数時間前に「可愛い可愛いとみ子」と言って安らかな眠りに入ったのが最後の言葉でした。29歳8か月の生涯でした。
   翌1928(昭3)年2月、二人で準備した第二詩集『貧しき信徒』が刊行されました。
   その後の妻とみ子と子どもたちのドラマについてはまた書きたいと思います。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。