花がふつてくると思ふ

      花がふつてくると思ふ     八木重吉

   花がふつてくると思ふ
   花がふつてくるとおもふ
   この てのひらにうけとらうとおもふ       (『貧しき信徒』所収)

 

一行目

   この詩においては、現実にあるもの、目の前に存在しているものは、おそらく、てのひらだけです。花は実際にはないものです。だからこの詩は叙景ではなく、幻ですらありません。花は幻として見えたものでなく、ただ「思」われただけのものなのです。しかし、「花がふつてくる」が喚起するイメージは、「と思ふ」によって現実にはその存在を否定されながら、しかしそのことによって、この現実から切り離されて純化されます。予感であり、期待であるだけの澄明なイメージになるのです。
   詩人は「花」を「思ふ」のではなく「花がふつてくる」ことを思っています。花そのものでなく、「ふつてくる」という動詞が示す動き=事件が重要です。たぶん、ある程度の高さのある樹の枝から花びらが散って落ちてくる映像を、読者は自分の経験したイメージの倉庫の中から引き出してくるでしょうが、その風景の広がりを、この詩の言葉は捨象します。経験されたイメージと経験則も関わった知識から、“花が高い木の枝から散り落ちてくる”と〈考える〉かも知れませんが、それは〈考える〉ことであって、人の心に浮かぶのは少し違います。「散ってくる」「落ちてくる」でなく「ふつてくる」という語の語感は、雨や光や殊にこの場合は雪に近いイメージを無意識のうちにも喚起するでしょう。〈遠い遠い果ての知られぬ上の方から〉あるいは〈どこから〉と言えないようなところから、それは「ふつてくる」のです。
   この詩行において、詩人(と読者)のまなざしの方向は上にあります。そして、最も重要なことの一つは、この「花がふつてくる」という〈思い〉の理由や事情が一切書かれていないことです。なぜそう思うのか?何も語られないゆえに、それはただ、不意に詩人の心に訪れた思いであるらしいのです。つまり花がふってくるのと同様に、「花がふつてくる」という〈思い〉もまた、遠い国から降ってきたもののようなのです。
   ですから、実は何よりも大事なことは、この一行の前に、沈黙があるということです。深い、深い、永遠といってよいほどの、沈黙があるのです。それは、祈りですらない祈りであるでしょうか。

二行目

 一行目と全く同じ意味内容の文章ですが「花がふつてくるとおもふ」と、最後の「思ふ」が「おもふ」に換っています。突然のインスピレーションでありそれゆえにそれを捉えようとする理性的な思惟であったものが解けて、もっと内なるところに流れ込んで、頭ではなく胸で、確認され確信されているのです。それゆえに、次の行の決心が噴き出してきます。

三行目

   二行目から続くひらがなの連なりによって、イメージも自然に連なってきます。ここではまず、「この」と「てのひら」の間に一文字分の空白があることが重要です。「この」と「てのひら」の間の一字の空白は、この自己への眼差しと認識の時間でもあります。「この」と空白によって、詩の言葉は一挙に方向を変えます。まなざしと思惟の対象を上から下へ、遠く高い彼方から、卑近な私という存在へ。つまり「この」は〈私〉の発見なのです。遠くから近くに、上方から下方に、眼差しは転換されますが、それは単に物理的な肉体への眼差しではなく、それも含んだ自己への認識と自覚であるでしょう。
   この「この」のなかに、詩人の自分自身への眼差しと自己認識があります。「この」でのみ語られる〈私〉は、「私」とさえ一度も呼ばれないままの〈私〉です。「この」という眼差しの先に見えるのは、小さな〈私〉、弱く、無力な、貧しい〈私〉。しかし、こうして生かされている〈私〉。こんな〈私〉が「ふつてくる」「花」を受け取ろうとしている。あるいは、「ふつてくる」「花」があってはじめて「この」〈私〉が存在し得ているのかも知れません。
   「花」。それは「ふつてくる」ものであって、獲得されるものではありません。ただ一方的に、恩寵として、天からふってくるものなのです。そして、それはそれゆえ、同時に〈託される〉ものでもあり、〈託される〉ものとしての花を受け取る、そのために存在する「この」〈私〉ということでもあるのです。
   「てのひら」は人間の身体器官なかで、たぶん口と並んで、最も繊細に優しくやわらかく何かを扱うことのできる、器官です。詩人は「落ちてくる花をつかむ」のではありません。「てのひら」で大切に丁寧に受け取ろうとするのです。「うけとる」は「受ける」と「取る」で構成されていますが、「受ける」は受動的であり「取る」は能動的です。「受ける」のは〈誰か〉によって送られ(贈られ)たものを大事に「受ける」のであり、「取る」のはそれに応えようとする積極的行為であり、自分自身のいのちの中に内化しようとする意志的行動です。委託と応答。そんなふうに「花がふつてくる」という思い、その予感と期待、責任ある反応行動への待機のなかに、詩人は全心を集中しているのです。それはたぶん祈りであり、その答えであり、それゆえ信仰の営みであり、また詩作の本質そのものです。だからでしょうか、ここで詩人が思っているのは「散る」「花びら」ではなく「花」なのです。
   実はこの詩人には「思ふ」心と、「この」「てのひら」しかありません。他には何も持っていないのです。眼差しはありますが、それはことばの眼差し、心の眼差しであって、詩人が眼球を持っているかどうかは分かりません。しかしすべては、最後に「とおもふ」があることで、「この てのひら」さえも現実から切り離され、現実には実存を持ちません。それは彼の謙虚さなのか、それとも「てのひら」もまた、きよめられる必要があるからなのか、或いはその瞬間こそがひとすじの信仰そのものであるからなのでしょうか。

   八木重吉 やぎじゅうきち
明治31~昭和2(1898~1927)年。東京府生。東京高等師範英語科卒。在学中の大正8年受洗。内村鑑三に傾倒。大正10年から兵庫県御影師範他で英語教師。同年8月第一詩集『秋の瞳』を出版。昭和2年結核のため29歳で召天。翌年第二詩集『貧しき信徒』刊行。『定本八木重吉詩集』(彌生書房)、『八木重吉全詩集1・2』(ちくま文庫)など。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。