人の悪を思はず善を以って悪を報いよ ―「沼崎重平翁」彰徳碑

   JR富良野線の美馬牛駅を出ると、駅右側前方に沼崎農場主であり美馬牛駅の開駅に功労のあった『沼崎重平翁彰徳碑』があります。沼崎重平は『続泥流地帯』に登場する医師です。
   ヒロインの一人深城節子は父親の悪行が嫌になり、家出して旭川に行き、沼崎先生の所に匿ってもらうことになりますが、そこに父親の深城が娘を返せと脅迫的に談判に行く場面があります。

   先生はじーっと深城の顔を見つめていたが、涙をぽろーっとひとつ、こぼされたそうだ。
「わしも人の子の親として、あんたの気持はよくわかる。しかし、死んでも帰らんという娘さんのすることを許してやってくれませんかね。」
   あの先生は、誰にでも言葉のていねいな先生でな。そう言って先生は、座布団からすべりおりて、深城の前に深く頭を下げたっつうんだな。

   綾子さんが沼崎重平をどんな人格の人として理解していたのかが、よく分かります。
             ※美馬牛駅で上下線の列車が行き交います。

   さて、この碑は昭和三十年六月十日、沼崎農場及び美馬牛の人々によって建立されました。碑の裏面に刻まれている趣旨文にはこう書かれています。

沼崎重平翁資性温良仁慈に富む明治三十九年北海道拓殖医として本町に移住医院開業爾来十有五年僻村医療の為専念其間村会議員を勤められ寸暇のない身で開拓事業にも尽瘁された功績は筆舌に尽し難い大正二年美馬牛駅を中心とする区域を沼崎農場とし開拓指導に力を注がれたが美瑛上富良野両市街には何れも三里余の行程を有し交通不便の為発展に支障あると痛感された翁は此処に停車場の設置請額運動を起し爾来十有数年間初心貫徹の為あらゆる困難を排除し大正十四年遂に停車場設置許可を得美馬牛駅と命名翌十五年九月開設された翁は又美瑛宇莫別川未曾有の水害復興に身命を賭しての功績に依り美瑛原野の一部貸付を得農場として開発された現在美瑛町沼崎農場が即ちこれである翁は其後本町を去り旭川市に於て沼崎医院を開設され専ら仁術に尽瘁されている是等数々の功績を刻名して永遠に伝える。                         撰文並に執筆 美瑛町 正七位 石山替治

    沼崎重平(ぬまざきじゅうへい)は、1878(明治11)年、茨城県稲敷郡根本村に生まれました。1897(明治30)年、東京医学専門学校済生学舎に入学し、医学の道を目指します。この頃安部磯雄に私淑してキリスト教に入信し、片山潜・幸徳秋水・荒畑寒村らとも親交を持つようになってゆきました。片山潜の妻の死に際しては葬儀委員を勤め、幸徳秋水とも親しく交り、その老母に対する孝養や優しい人柄にひかれ、大逆事件については後に「彼は決してその様な人物ではない、稀に見る人格者であり、これは当時の桂内閣の陰謀のデッチ上げなのだ」と語ったそうです。美瑛の時代には青年時代の友人荒畑寒村を講演に招き、社会主義を危険視していた警察に睨まれたりしたともいわれています。社会主義的思想にも共感しましたが、沼崎重平自身は終生クリスチャンとしての人道主義の立場を貫いた人でした。

   医学の学びを終えたのち、1904(明治37)年、故郷の根本村に開業しますが、2年後の1906(明治39)年、北海道上川郡美瑛村に開拓医として赴任しました。1913(大正2)年に美馬牛ほかに沼崎農場を創設。1915(大正4)年に日本キリスト教美瑛講義所を献堂落成しました。さらに1920(大正9)年には、旭川市の向井病院を買収し経営を始めます。2年後1922(大正11)年4月25日病院は火事になりますが、その日が三浦(堀田)綾子の誕生日でした。そして1926(大正15)年9月、かねて請願中の美馬牛駅が設置されるに至りました。美馬牛駅前の碑はこの功績を讃えています。  ※写真は上が日本キリスト教団美馬牛教会、下がその庭の薔薇

   1899(明治32)年11月15日、美瑛-上富良野間の鉄道が開通しましたが、20km近い区間に一つも停車場がないので、沿線住民の要望と沼崎農場としての必要から停車場設置の運動を開始しました。途中、鉄道省の火災で請願書が焼失したり、設置を考えた沼崎農場近くの場所が地形的に困難とされ、現美馬牛駅周辺の土地15町歩を沼崎重平が買って鉄道省に用地として寄付するなど、多くの苦労を経て許可が下り、足かけ13年かかって開業しました。※写真は美馬牛付近のビート(砂糖だいこん)畑

   また、沼崎重平の農場経営は、開拓時期は農場主-小作人という形態から始めながら、開拓後は働く者に与えて、営農基盤を持つ自作農を産み出してゆくというビジョンでしたから、昭和9年には農場を小作人に解放。全ての小作人に自作農になることをすすめ、地主としての地位を捨てて道庁に移管し、小作人が年賦で償還するようにして自作農化を実現しました。そのような小作に対する長年の温情はもちろん、病気をして入院しても経済的に困難な場合には無料にしてくれたりもしたので、人々は『沼崎先生の影はふめぬ』と言ったそうです。※写真は美馬牛小学校

   1941(昭和16)年には旭川市に沼崎病院を開設しますが、『続泥流地帯』で節子を受け入れて助産婦として育てたり、『岩に立つ』で鈴本新吉と温かく交わりながら導いたりする様子が描かれているのは、この沼崎病院開設の少し前の時期になります。1957(昭和32)年には、渡道して開拓医として働き始めて50周年に際し、自治功労者表彰を受け、1959(昭和34)年、82歳で召天しました。※写真は美馬牛駅に近い沼崎農場踏切

   子息の沼崎修氏は『沼崎重平追想録』(沼崎修発行、昭和37・5)の中で、「父は常々聖書の言葉にあります様に『人の悪を思はず善を以って悪を報いよ』をたくまずして出来る人で御座いました」と書いています。
  ※写真は美馬牛駅ホームの花壇のひまわり

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。