8月24日は握手記念日

   8月24日は1955(昭和30)年、三浦光世さんが堀田綾子さんを見舞った三回目の日。この日光世さんは「神よ、わたしの命を堀田さんに上げてもよいですから、どうか堀田さんを癒してください」と祈りました。なぜこんな祈りができたのでしょう?
   前回、2回目の訪問は7月3日でした。そのとき綾子さんは一冊のアルバムを見せてくれました。そのとき、そのアルバムに書かれていた綾子さんの短歌が光世さんの心を打ちました。

      丘に佇ち君に撮されゐし時もこんなに淋しい顔をしてゐたのか

 写真に添えられたこの一首に、私の心は疼いた。美しくも悲しい歌である。

   その日、綾子さんは歌誌『アララギ』を貸してくれ、勧められた光世さんは間もなくアララギに入会しました。この日のことを光世さんはこう詠んでいます。

      堀田さんの貸してくれたるアララギ誌クレゾールの匂ひが沁みこんでゐる  
      ギプスベッドに顔さえ横に向け得ねば君は牛乳を口に注ぎ落とし飲む

 顔を横に向けることさえ許されない綾子さんは牛乳をカップで飲むことも出来ず牛乳瓶を右手に持ち、胸の上にかざして徐々に傾けて開いた口に注ぎこんでいました。瓶に直接口を当てると牛乳があふれてしまうのです。馴れているらしい様子を見て光世さんは胸を衝かれる思いをしました。何と大変な日々だろう。何とかして回復できないものだろうか。光世さんは何としてでも治ってもらいたいと思ったのでした。
 「自殺行為」と同僚に言われるほどに働いていた光世さんは、休日はほとんど寝ていなければならないほどに疲れ果てていましたので三度めのお見舞いは五十日余りのちの8月24日でした。その帰り際に、光世さんは祈ったのでした。その人のために「命を上げてもよい」という祈りを初めて聞いた綾子さんは驚き、感動しました。感動のあまり、思わず彼に手をさし伸ばしました。その手を彼はしっかりと握ってくれました。これが、彼にとって異性との初めての握手であったことを、綾子さんはのちに聞かされました。
   『妻と共に生きる』(角川文庫)のなかで光世さんは、膀胱結核による拷問のような日々からストレプトマイシンによって癒されて働けるようになって、いつ死んでも満足だという気持ちだったからで、そんなに感謝されるほどの祈りではなかったのだと語っています(光世さんの韜晦が多分にあるように感じます)が、たとえそうであっても、綾子さんが驚いたように、常人には思いもつかない祈りであったことには変わりないでしょう。
   まず、綾子さんの短歌を通して綾子さんの淋しさを抱いた心に触れて「私の心は疼いた」という経験があり、そして自分の闘病中の激痛の経験とも合わせ見て胸を衝かれ「何と大変な日々だろう」という駆け寄るような心になったのです。これらはどれも“痛み”です。そしてなぜか“痛み”が胸の奥で静かな問いとなり、発酵し、熟成してゆくと、“いのちを上げてもよい”ような愛にまで醸されてゆくもののようです。意味は少し違いますが、綾子さんの最初の短篇小説「井戸」の言葉を思い出します。

   「痛いっていいことなのよ」

   痛みを感じないと大事なことに気づかないからです。おそらくはいつも、痛みのところにこそ、人間にとってとても大事なものがあるようです。痛みは多くの場合、人を孤独にするものです。痛みは訴えない限り、場合によっては訴えても、誰にも分かってもらえない私だけの秘められたものだからです。でも、それゆえにむしろ、その私の痛みが、その人の痛みとして受けとめられたと分かるとき、思わず人は手を伸ばして、その人を求め、手をつないでゆくのです。8月24日、この日を綾子さんは光世さんの類まれな祈りと共に覚え続けて「握手記念日」と呼びました。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。