「あ、男だった!」ー 初めて綾子さんに会った日
一九九五年九月一七日日曜日。その日は私にとって生涯忘れ得ない日になりました。旭川六条教会で三浦綾子さんと光世さんに初めてお会いした日だからです。この年春から福岡女学院短期大学のゼミの授業で三浦綾子を取り上げて読み始め、前期が終わった夏休みに、ゼミの研修旅行で13人の学生を連れて、初めて飛行機に乗り、初めて北海道に来たのでした。その日は曇り日で既にパーキンソン病が進行中の綾子さんの体調は悪く、下痢の充分止まらない中、お二人は遅れて礼拝に来られました。
数ヶ月前からお手紙を差し上げて、私たちとお会いいただきたい旨申し上げましたら、六条教会の礼拝でお会いしましょう。体調が良ければ行けますからとお返事いただき、更にあちこちの文学散歩で訪ねるべき場所と行き方などもお教え下さいました。文字は八柳秘書のものでしたが、ほんとうに丁寧なお手紙とお心遣いに感激しながら、しかし体調が悪ければお会いできないという条件付きですから、はらはらしながらの渡道でした。
礼拝が始まったときは二人はおられませんでしたから、ああ今日は駄目か?と思いながらおりましたが、半ばになって会堂後部の座席に来られたことを知りました。
この日の礼拝では、最後近くに芳賀康祐牧師によって中島啓幸さんの洗礼式が行なわれました。式後、光世さんが教会員を代表して中島さんと固く握手したのを覚えています。綾子さんは「わたしの『塩狩峠』で生まれた私の息子」と言いながら彼を抱きしめましたが、直後彼の手を取って厳しい顔で「キリストから離れたらダメッ!」と戒めました。中島さんはその後2007年に『塩狩峠、愛と死の記録』を出すことになる“長野政雄のアホウ”で、本にする最終段階では少しお手伝いもしましたが、その洗礼式の場にいたことを、うれしくも不思議にも思います。
礼拝後、初めて私の顔を見た綾子さんは、
「あ、男だった!」
と言いました。私は手紙を書いたとき自分の性別までは書いていなかったのです(わざわざ書く人は余りいないと思いますが)が、この「衛」のついた女性が三浦夫妻の知り合いにおられたようで、私の手紙の文字などを見て、光世さんは女だと言い、綾子さんは男だと言ってたそうなのです。賭けまではしてなかったと思いますが、そういう事情で「あ、男だった。私の勝ちよ!」と叫んだのでしょう。でも、綾子さんという人はそうやって、緊張している相手の壁を壊して入ってくる天才でもありました。たくさんの学生を連れて初めて綾子さんに会いにきた若い教師で研究者がどんなに緊張しているかなど、完全に分かっていたでしょう。それでほぐしてくれるための、ファーストパンチだったのです。そしてそれに対してどんな応対をするかも見るのでしょう。なかなか怖い人です。そんなことは思いもしない奥行きのない私は、ひきつって笑っていたのかも知れません。
それから夫妻はすぐ近所にある旭川グランドホテルの二階の部屋を借りてくださって、私たち14人、夫妻と八柳秘書、そしてたまたまこの日来られていた北海道新聞の後山カメラマンの18人で中華料理のお昼をいただきました。勿論全部三浦夫妻持ちです!そして、綾子さんは、パーキンソン病のふるえる手で書いたサインの入った文庫本を私たち一人一人にプレゼントして下さいました。そして、たぶん一時間半ぐらいだったでしょうか、光世さんとかわるがわる、いろいろなお話をして下さいました。若い学生たちのために、仕事についての考え方や、聖書をよむことの勧めもして下さいましたが、綾子さんがお話しくださったことの中で一番印象に残ったのは、祈りについてのお話でした。
「私はね、神さまにお祈りしていて、その祈りが聞かれないと、楽しみになるの。だって、そのときには、ああ神さまは私とはお考えが違うんだとわかるでしょ。そしたらね、神さまはこのことをこれからどんな風にして下さるのかしら、と思うと楽しみで仕方なくなるの」
この祈りと信頼と期待についての考えは、『夕あり朝あり』にも出て来ますし、『続泥流地帯』の石村佐枝の言葉「人間の思いどおりにならないところに、何か神の深いお考えがある」とも通じていますが、それからずっと、今に至るまで、私を支え続けてくれました。
この日体験的に分かったあと二つのことがありました。それは、三浦綾子に嘘がないということです。作品には立派なことが書かれているけれども、実際に会ってみたら、何とも傲慢で感じの悪い人だったということは、世の常とも言えることです。しかしこの人にはそれどころか、書いている以上のものがある、この体調でこの私たちのためにこれほどまでのことをして下さる方。旅人を懇ろにもてなせという言葉をそのままに、期待以上に実践できる、“ほんもの”なんだということでした。そしてもう一つは、この日この懇談昼食の後、余りにもありありと学生が変わるということを見たことでした。どの学生も、こんなに生き生きと嬉しそうな顔を見たことがないと思うほどでした。タクシーで帰る三浦夫妻をお見送りしてから、美瑛に行き自転車に乗って丘めぐりをしたのですが、坂はきつい、暗くなって途中で雨は降り出すという、いかにも女学生が文句を言いだしそうな状況だったのに、みんな笑いながら雨に濡れながら走って楽しくてたまらないのです。そして、その悦びは福岡に帰って授業になっても続いたのです。私は思いました。もう太宰も、志賀直哉も全部やめていいから、ゼミは毎年三浦綾子で行こう!
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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