2020年10月26日(月) / 最終更新日時 : 2020年10月26日(月) 森下 辰衛 前川正 前川正から贈られた『きけわだつみのこえ』 1949(昭和24)年10月26日(水)、堀田綾子は前川正から『きけわだつみのこえ』を贈られました。正は扉裏に以下のように書いていました。 これは全く私達と同じ世代の友達の声 而も彼等は死に 私達は生きた 私達の生は 彼らに負ってゐる さあ、更めて かつての自分たちの声を聴かう― 一九四九・一〇・二六 正 綾子様
2020年9月26日(土) / 最終更新日時 : 2020年9月26日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 洞爺丸遭難事件と『氷点』 『氷点』の懸賞小説入選が決まって間もなく朝日新聞からの依頼で、新聞小説の一日分三枚半を三枚強に書き直すことになったとき、光世さんが洞爺丸遭難事件のことを入れてはどうかと提案して、二人は函館まで行って調べることにしました。エッセイ集『それでも明日は来る』を見ますと、『氷点』連載半年ほどたった昭和40年5月、三浦夫妻は函館教育大学の美術の教授渕上巍氏を紹介されて、体験談を聴きました。
2020年6月30日(火) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 前川正 今日はあなたの百歳の誕生日 前川正さん。ちょうど百年前の1920(大正9)年6月30日、旭川市宮下通り19丁目であなたは生まれました。今日はあなたの100歳の誕生日。なぜあなたはあの場所で、あの時代に生まれたのでしょうか?今その場所を訪ねても、確かな場所は分かりません。何の記念の目印もなく、道行く人もそれを知りません。
2020年6月18日(木) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 文学散歩 ベッドの中の澄んだ大きな瞳は美しかった 案内された堀田綾子の六畳の病室はクレゾール匂う装飾のない質素な部屋でした。木製のベッドの上に彼女は身を横たえていました。ギプスベッドで寝返りも打てないその人の顔はむくみを帯てはいましたが、澄んだ大きな瞳は美しく印象的でした。 「寝ているだけの病気です」 ベッドの傍らで聴いたその声は澄んでいて、弱々しい響きではありませんでした。
2020年5月13日(水) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 文学散歩 桜散る神楽岡公園を歩く 2020年5月12日、桜散る神楽岡公園周辺を歩く文学散歩へようこそ。『草のうた』『銃口』『この土の器をも』「雨はあした晴れるだろう」など舞台になっています。
2020年5月7日(木) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 三浦綾子と天国の希望 上 綾子さんが天国というものを初めてはっきりと意識したのは、前川正さんが亡くなった時だったと思います。『道ありき』にはこう書かれています。 わたしはその時になって、初めて天国を思った。昨年の七月、敬愛する西村先生を失い、それから一年もたたぬうちに、前川正も天に召された。当時のわたしは、この世よりも、天国のほうが慕わしく思われてならなかった。
2020年5月3日(日) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 前川正 「あなたは、全く、素敵な人だ」― 前川正の葬儀 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 1954年5月3日、午前10時より、日本基督教会旭川二条教会で前川正の葬儀が執り行われました。司式は竹内厚牧師。この日、竹内師が読んだ聖書の個所は、故人の遺言によって選ばれていた新約聖書「ヨハネ第一の手紙」4章7~21節でした。
2020年5月2日(土) / 最終更新日時 : 2020年8月29日(土) 森下 辰衛 前川正 李(すもも)― 前川秀子から綾子への手紙 抄 どうぞ、覚えてやってください。あの子は、神を恨みながら死んだのではありません。あなたに出会ったことを後悔しながら死んだのではありません。人生と運命を呪いながら死んだのでもありません。怯えながら、恐れながら死んだのでもありません。一度も何に対しても「ちくしょう!」と言わなかったのです。それだけは褒めてやりたいと思います。
2020年5月1日(金) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 文学散歩 「一生懸命生きましょうね」と丘の上で彼は言った。 その日から、わたしたちは、友だちであることをやめた。 導かれつつ叱られつつ来し二年何時しか深く愛して居りぬ 吾が髪をくすべし匂ひ満てる部屋にああ耐へ難く君想ひ居り わたしは生まれて初めて、恋愛の歌を作った。 やがて雪がとけ、北海道にも春がきた。
2020年3月21日(土) / 最終更新日時 : 2020年7月7日(火) 森下 辰衛 三浦光世 幼吾ら三人を置きわが母を置き ― 三浦光世の短歌 ① 幼吾ら三人を置きわが母を置き昭和二年父逝けり三十二才にて 1927(昭和二)年、三歳で父を喪った光世さんが、勿論そのときには何も分かる年齢ではなかったのですが、長い時間を経て、大人になり、わずか三十二歳で逝った父貞治さんのこころを思って詠んだ歌です。まだ二十代だった妻シゲヨさんと幼い三人の子ども(長女は既に親族の家に養子に出していました)を置いてゆかねばならなかった辛さを想いみると、きっと一人一人のこれからへの心配に、父は胸が絞られるようだっただろう。