洞爺丸台風と洞爺丸遭難事件
昭和29年(1954年)9月21日にヤップ島の北で発生した台風第15号(国際名:マリー/Marie)は、非常に速い速度で26日02時頃鹿児島湾から大隅半島北部に上陸した。九州東部を縦断後、中国地方を時速100kmで横断、08時頃山陰沖から日本海に進んで、さらに発達しながら北海道に接近し、21時には最盛期を迎え北海道寿都町沖を通過、27日00時過ぎには稚内市付近に達した。
この台風による降水量は、九州と中国地方では200mmを超えた所があったが、そのほかの地方では少なかった。台風は日本海に入っても発達を続けたため、西日本や東北、北海道の各地で30m/s以上の暴風が吹いた。
また、北海道岩内町ではフェーン現象により3,300戸が焼失する大火が発生した。さらに広い範囲で暴風となったため、被害は九州から北海道まで全国に及んだ。消防白書によれば、死者1,361名、行方不明者400名、負傷者1,601名、住家全壊8,396棟、半壊21,771棟、床上浸水17,569棟、床下浸水85,964棟などとなっている。最低気圧956hPaで、北海道を中心とする北日本では猛烈な暴風による被害が大きかった。最大風速は寿都で42.0メートル(最大瞬間風速53.2メートル)、室蘭で37.2メートル(55.0メートル)に達したほか、各地で30メートル以上となった。森林が受けた風害も大きく、支笏湖周辺などでは全山の大木が根こそぎ倒された。
洞爺丸遭難事件は、1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号(洞爺丸台風)により起こった、日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故である。死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ、日本海難史上最大の惨事となった。
1954(昭和29)年9月26日、函館海洋気象台によると、台風15号は15時時点で青森県西方約100キロメートルにあって、中心気圧968ミリバール(当時の単位。数値はヘクトパスカルと同一)、時速110kmで北東に進んでおり、その後17時頃渡島半島を通過して津軽海峡にもっとも接近すると予想されていた。
午前中青森からの下り3便として運航を行っていた洞爺丸は、函館の鉄道桟橋第1岸に到着し、折り返し14時40分出航の上り4便となる予定であった。この日、函館市内で断続的に発生していた停電のために船尾の可動橋(車両を載せるために船体後部にかけられる橋)が上がらず、出港の見通しがたたなくなったため、洞爺丸も15時10分に台風接近を恐れて運航を中止した。しかしこの停電はわずか2分間のことで、程なくして可動橋は上げられたが、出港見合わせは取り消されなかった。もしこのとき出港していれば、洞爺丸は無事に青森に着いていたであろうと言われている。
17時頃、函館では土砂降り後、風が収まり晴れ間ものぞき台風の目が通過したことを思わせた。台風の速度から見て天候の回復は早いものになるとみて、海峡の気象状況を検討した結果、自身の気象判断に自信を持っていた近藤平市船長は出航を決断。17時40分頃、出航時刻を18時30分とすることを発表した。しかし、これは台風の目ではなく実際には閉塞前線であったと考えられている。当時は気象衛星での観測写真は存在しなかった。
18時39分、洞爺丸は青森に向けて遅れ4便として出航した。乗員乗客は合わせて1,337人。出航して間もなく、南南西の風が著しく強くなり、19時00分頃、港外に出た直後から猛烈な風浪に襲われ、天候が収まるのを待つために函館港防波堤灯台付近の海上に投錨し仮泊。この頃札幌管区気象台19時発表の台風情報を無線室が受信し近藤船長に届けられるが、気象台は台風の速度が急におちたことを把握していなかった。やがて平均40メートル、瞬間50メートルを超える南西方向からの暴風と猛烈な波のために船体は流され、車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水が発生し、蒸気ボイラーへの石炭投入が困難になった。
20時30分頃には浸水が進み、発電機が次々に運転不能となるとともにビルジ(船底に溜まる汚水のこと)の排出もできなくなり、22時頃には、左右両舷の機関が故障停止して操船不能になった。船長は、沈没を避けるため、遠浅の砂浜である七重浜への座礁を決め、乗客に報じると共に、旅客に救命胴衣を着用させるよう事務長に対して指示を出した。
22時26分頃、海岸まであと数百メートルの函館港第三防波堤灯柱付近の地点で座礁、船体は右舷に45度傾斜。座礁の報告を受けて青函鉄道管理局(青函局)は救難本部の設置を決定。補助汽船4隻(いずれも150トン程度)を現場に向わせるが波浪激しく断念した。
22時43分頃、船体を支えていた左舷錨鎖が耐えきれず切断。この時大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車の倒れる轟音とともに横転した。2分後、函館港防波堤灯台付近の地点に右舷側に約135度傾斜し沈没。最後には船体がほぼ裏返しで海底に煙突が刺さった状態になった。
夜間であったことに加え、激しい風雨や情報の混乱などで救助活動が遅れ、七重浜に打ち上げられた時点では生存していたもののそこで力尽きて亡くなった者が相当数いたとも言われ、多くの犠牲者が一度に発生したことから既存の火葬場では処理が追いつかず七重浜に仮設の火葬場が設けられた。この事故では、浅井政治・国鉄札幌総支配人と旭川・釧路の鉄道管理局長、冨吉榮二元逓信大臣と菊川忠雄衆議院議員、元宝塚女優の佐保美代子などの著名人も犠牲となった。
当時の函館港内には8隻の船舶が在港しており、係留索切断・錨鎖切断・走錨などの事態となったが、沈没は免れた。しかし港外に錨泊した船9隻のうち、無事であったのは2隻のみで、2隻が座礁、5隻が沈没した。その5隻は、洞爺丸を含めてすべて青函連絡船である。洞爺丸のほかにも、函館港外で碇泊した北見丸、日高丸、十勝丸、大雪丸、第十一青函丸、第十二青函丸の6隻でも同じような状況が発生して、大雪丸、第十二青函丸は危機を逃れたものの、他の4隻は函館港外で相次いで転覆・沈没した(第十一青函丸は転覆しないまま船体破断で沈没)。また、沈没には至らなかったものの、アメリカ海軍のLST-1級戦車揚陸艦LST-546号(2,319トン)が座礁して難を逃れたとの記録が残っている。更に海難救助にあたっていた海上保安庁のはつなみ型巡視艇「うらなみ」も二次遭難している(乗員は全員救助)。
一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り、戦争による沈没を除けば、発生時点では1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故であった。他にも大雪丸のように沈没こそしなかったものの航行不能となった船もあり、青函連絡船は終戦前後の時期に近い壊滅的打撃を受けた。航路開設以来、未曾有の大惨事であった。この特異な台風は西日本でも約300名の死者行方不明を出すなど、各地に甚大な被害を残し、後に「洞爺丸台風」と命名された。
この事故を教訓として既存連絡船への改修が施され、運航についても、船長に任されていた出航判断が船長と青函局指令との合議制になり、気象台との連絡を緊密にすることや、退避先を函館でなく、陸奥湾の奥にあり波浪の影響を受けにくい青森とする等の改善措置が図られた。また、新造される連絡船の船体構造の設計も大きく変更され、安全性に力が入れられた。結果、その後1988年の終航まで、青函連絡船で2度と洞爺丸事故級の大事故がおきることはなかった。
この事故をきっかけとして、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されることになっていく。
洞爺丸の船体は後日引き揚げられたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証後に解体された。
事故の翌年、多くの犠牲者の遺体が打ち上げられた北海道北斗市七重浜7丁目に、犠牲者を悼む洞爺丸慰霊碑が建てられた。
本事故を題材とした多くの作品があるが、時期の早い代表的なものとして、水上勉の『飢餓海峡』(「層雲丸」として登場。遺体収容時に身元不明の二体が発見されるところから始まる。内田吐夢監督により映画化)、三浦綾子の『氷点』(作中で主人公の一人辻口啓造が洞爺丸に乗船し、事故に遭遇する)がある。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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