「手をつないで、向こう岸へ渡りなさい」ー 父の思い出

   9月5日に父が亡くなり、9月8日に葬儀がありました。83歳でした。10年前叔母の葬儀をした同じ葬儀場(小説『カバゴジラ』に書いています)で、けれどコロナ状況下ですので、遠くの親族も呼ばず、告知もしませんでした。叔母の時には叔母が晩年を過ごした「こだま園」の仲間が60人も参列くださったので、大ホールにそれなりの数でしたが、父は10畳二間ほどの座敷での家族葬で10人でした。
   私以外にクリスチャンはおらず、真言宗の家なので医王寺の村田住職さんが来て通夜と葬儀をしてくださいましたが、住職さんは来るなり、遺影を見て、
   「ああ、本当に亡くなられたんですね」
   と嘆息しました。実は我々一家はみんなこの住職さんを「としぼう」と呼んでいました。「坊」は「坊主」でなく「坊や」です。弟は「まあぼう」でした。小さいときから良く知っていて、中学では一緒に野球してた後輩でした。彼は私に言いました。
   「四十年ぶりでしょうか。森下さんはサードやってましたよね」
   彼は中学を卒業すると、寺の跡継ぎのために高野山の関係の高校に行ってしまいましたから、本当にそれ以来でした。子どものころから背も高く少し太り気味で大きなからだでしたが、少し前に病気したらしく、五十代半ばで、もう歩くのが不自由で杖をついていました。故人に「明照清範信士」という戒名(父は森下清と言います)を付けた意味を語り始めて、彼は号泣しました。私はお坊さんが葬式で号泣するのをはじめて見ました。
  父が亡くなった夜、病院から遺体を葬儀場に運んで、一緒に泊まりました。一晩めは私が一人で。二晩めは兄の19歳の長男も一緒に泊まりました。この葬儀場の和室の部屋に畳がありお風呂もあるのを見て、修学旅行みたい!と思った彼は、どうもそういう気分を味わいたかったようです。この甥は自閉症です。小さいときには叫びながら走り回り続けるので、かなり大変でしたが、昨年高校を卒業してからは、採卵養鶏場に就職できて働いています。無理かなと思ってた自動車免許も取れて、中古の軽だけど自分の車もあります。秋葉原までアニメのイベントに参加したくて一人でバスも予約して行ってくることもできます。兄夫婦も頑張りましたが、じいちゃんばあちゃんも、よく教育しました。
   朝起きると、彼は、じいちゃんの顔の覆いをとって語りかけました。
   「じいちゃん、おはよう。今日は良い天気だよ」
   前の夜には、
   「じいちゃん、お休みなさい。じいちゃんも眠ってください。とわの眠りにおつきください」
   と言うので、噴き出したのですが。

   父・森下清は昭和12年倉敷市で生まれました。水野源三さんと同い年です。その後、炭鉱夫だった父親に従って山口県宇部市や北九州の折尾駅から近い、ぼた山のある水巻町で育ち、中卒で郵便局に就職。夜間の高校に通いながら、映画館の看板描きをしては只で映画をたくさん観たようです。特に「雨に唄えば」などのミュージカルが好きでした。器械体操、水泳、スケート、自転車の曲乗り、何でもできて、大型バイクで走る(カミナリ族?)カッコイイお兄ちゃんだったのですが、その後複雑な(と言って悲劇的ではないですが)事情で岡山県の田舎の森下家に婿に来ることになったのは二十歳のときでした。結婚した相手は一つ年上の人で、60歳過ぎの姑さんと知的障害のある義妹という女所帯に入ったわけです。
   若くて知り合いもなく風習も違う田舎に来て苦労もしたようですが、次第に本領発揮してゆきました。村に青年会や子ども会を作り、季節ごとの様々な行事をしながら子どもたちを育成するという仕事を地域で担っていきました。田舎のことですから、花まつり、夏のほぼサバイバルのようなキャンプ、盆踊り、秋祭りの子どもお神輿、クリスマス。いろんな宗教満載(村には神社とお寺はありましたが教会はなかった)でしたが、一応それぞれの意味も正しく教えていました。大晦日にお寺で除夜の鐘はなぜ百八回なのかお坊さんから講義を聴いて、交替で突かせてもらう体験学習をしたこともありました。上述の医王寺の住職「としぼう」も、その子どもたちの一人のわけです。
   そこから更に、自作の人形を使った腹話術や手品、果ては一輪車乗りに宙返りまでして、ウイークデイは商業デザイナーでしたが、休日は県内各地で交通安全や防犯についての肩の凝らない講話をして廻る仕事(嘱託)も始めました。私もそれについていって、荷物を運んだり、セッティングしたり、大根だけ切れて腕の切れない手品の時に大根を渡したり、時には間違って手を切られそうになったりしながら、手伝いました。今、思ってみると、そうやって巡業を学んでいたのかも知れません。何のことはない、息子である私も、範囲が日本中になって話す内容が違うだけで、同じようなことを、今しているのです。また、老人ホームや様々な障害を持った方々の施設などを子どもの時から訪問していたことはとても良いことでした。

   私が小学校の低学年の頃のことでした。村にゴルフ場建設の計画が持ち上がりました。村は西日本にはどこにでもある平凡な里山の農村地帯で、どの家も小規模な兼業農家でした。父は、どこで何を学んできたのかは分からないのですが、強い危機意識を持ったようで、ゴルフ場建設に反対しました。ところが、父と一緒に反対する人は一人もいませんでした。父は休みをとっては、軽四の自家用車の屋根にスピーカーを積み、車体に看板も描いて、村を走り、あちこちで反対演説をして回りました。多くの家が既に山や土地を建設業者に売って金も受け取っていたので、とうてい勝ち目はなかったのですが……。ところが、不思議なことに、結果的にはゴルフ場は遂に出来ませんでした。どうも業者の経営悪化が原因だったようなのですが、とにかくゴルフ場は出来なかったのです。私は子どもながらにこの父を見て、自分ならできるだろうか?とても出来ない、と強く思ったことを記憶しています。
   ゴルフ場建設の問題はその後も何度か起きたようですが、私はもう家を出て遠くにいたので詳細は知りません。それでも、聞くところでは、何回目かのときには、私の小中高校で同級生だった「けんちゃん」が来て、「おじさん、おれも一緒に反対運動したいんだけど、いいかなあ」と言って、加わったと聞きました。中学高校とまあ学校一番のツッパリで、そういうイデタチだった彼を見たのが最後なので、驚きました。ゴルフ場は今に至るまで出来てはいません。
   この最初のゴルフ場問題と同じころだったと思うのですが、ある日、父と二人、車で町に出た時でした。青果市場の前あたりで、父が不意に道脇に車を停めました。そして、
   「たつえ、あの人の手を引いて、渡らせて上げなさい」
   と言うのです。見ると、車の前で、目の不自由ならしいおばあさんが道を渡ろうとして困っていました。私はまだ子どもで、出て行けませんでした。父はしばらく私を促していましたが、私が出ないと見ると、車を下りて、そのおばあさんの手を引いて渡らせて上げました。車に戻った父はもう何も言いませんでした。
   この時に感じた恥かしさと悔しさを、私は長く忘れることができませんでした。そして父には勝てないと思い続けて生きました。でも、いつごろからだったでしょうか、勝てないと思うものがあることはありがたいことだとも思うようになりました。
   「手をつないで、向こう岸へ渡りなさい」
   それは、私のなかで、大事な示唆と励ましになっています。

※上の写真は実家の前から向かいの山を見た景色。中腹に見える寺が医王寺です。下は三十代の父。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。