「いつ死んでも、一点恥じるところはない」- ていさんの泥流体験談(抄)

   1926(大正15)年5月24日は十勝岳が噴火して泥流が発生し上富良野と美瑛の村を襲い144人の人が亡くなるという大惨害が起きた日です。三浦綾子さんはこの事件に取材して『泥流地帯』『続泥流地帯』を書きましたが、上富良野での調査取材で最も多くの証言をしたのが清野ていさんでした。ていさんは旧姓吉田、当時の上富良野村吉田貞次郎村長の娘で、『続泥流地帯』には登場人物としても描かれています。以下は、このていさんにお聴きした体験談の抄録です。

   泥流が起きた日は何曜日だったでしょうね、学校は行ったんですね、雨降りでしたけど。雨が朝から土砂降りで、山も全然見えませんし。普通の日は運動会の稽古をするんです。6月10日が運動会と決まっていました。走ったり遊技をしたり、まだ小さいですから、『やまのたいしょう』というのを本当はするんだったんですよ。雨降りだからお昼までで家へ帰って、妹と遊んでいました。土砂降りで、雨の音だけと思っていたんですけれども、午後4時頃、どうも雨とは違う音がすると母が上がってみたら、そこまで泥流が押し寄せて来てたんです。それで母が大きな声で「大変だ!」と、急いでかけて来た時には、兄と妹、67才の祖母と、それから家を前の年から建ててた左官屋さんたちがいました。窓から見ると線路の向こう側、向こうの家がすぐそばまで来て浮いているんです。それで祖母が「逃げよう!」と。それで西の山の方に逃げました。
   ちょうど5月の24日、4時頃。もうきれいに代かきをして、種まきをするばっかりになっていた田んぼの中を、裸足で走って。妹は母に負ぶさって。7才の私は左官屋の藤森さんのおじさんが負ぶってくれまして、兄は5年生でしたから自分で走って。みんな必死になって走った。だけど山は遠い。でも、鉄道が堤防になって少し泥流がせき止められたような形になって、ちょっと時間があって。4線道路というところまで、昔の150間、そこの半分も行かないうちにもう泥流が来てしまった。線路をのり越えて。それで私は背中から、「早く、早く、おじさん!」と。おじさんは滑って転ぶんです。田んぼの真ん中ですから、どろどろになって。それでもまた私を負ぶってくれて。そのまま私を置いて逃げてもいいのに、おじさんは私を何回も何回も。ほんとにあのおじさん、私にとって神様です。
   それで4線の所に米村さんという家がありまして、そこまでやっと辿り着いた時、ちょうど泥流が来てしまいました。ポプラの大きな木があって、「ここにつかまれっ!」ておじさんが、みんなに言って、そこにしがみついたと同時に泥流がガーッと。間一髪です。祖母だけは足が遅くて、横のあぜを通っていたんですね。もともと心臓の弱い人でした。母親に「覚悟せい!」とそう一声言い残して、泥に飲まれたそうです。三日後、ずっと町よりの方の山沿いで発見されました。本当に、あの時のことを思い出したら、何て言っていいか、子供心にも「もう死ぬんだ」という気持ち。覚悟するっていうのではなくて、「もう死ぬのだ」という気持ち。ほんとにあの時死んでいたら、こんなに長生きさせて頂くこともできなかったんです。ほんとに紙一重の差です。あそこにドロドロの中で自転車を引っ張っている写真がありますけれど、あれが藤森さんという左官屋さんです。
   そこに助けが来たのは、その米村さんちで夜を明かしてその翌日です。すぐ隣の小松田さんという私のお友達の家は全員亡くなった。家も。いつも同い年のマサエさんという人と遊んでいたんですけど、その人と妹さん3人とお母さんとお婆さんとお爺さんとみんな亡くなったんです。お父さんと姉さんという人は町へ用事に行ってて助かった。だから、ほんとに紙一重です。
   明るくなりましたらレールの無い線路の上に、見舞いに行く人やら、美瑛の方から応援に来た人やら。汽車はもちろん通りませんし、黒山のように沢山の人が。そしたらその中で若い方が飛び込んでくれまして、助けに来てくれました。何と言うお名前か、忘れましたが、たった一人で、危険な泥水に。そしてその米村さんの下駄箱に兄と妹と私の3人乗せて貰って、そして長いことかけて、あとの大人の人たちは線路の枕木を伝いながらレールの上を。それで150間を二時間かかった。下駄箱と言っても水が入るはずですよね。それが入らないくらい泥で、全然沈まない。それで流木をよけながら、その方一人で助けて下さったんです。みんなドロドロですから、寒いんです。泥流が流れてきた瞬間は生暖かかったんですけど。


   要職にあった父(注:吉田貞次郎村長)は、まだ家に帰って来ってはおりません。それでも、助けられたとき、父も来ておりました。膝までドロドロになって、町から。父がその時嬉しそうな顔をして。私も嬉しかったですよ。でも父は嬉しいと共に大切な母を亡くしたわけですから、それを思うと胸が詰まります。父のことですか?父は昭和23年に亡くなりました。終戦の3年目に胃ガンで亡くなったんです。みんなと協力して、昭和8年頃にやっと稲が、だからちょうど7~8年たったら、反収2~3俵ぐらいか。今でしたら10俵位取れるんでしょうか。それでもみんな復興できたと喜んでました。
   父は自分の家が流されなかったので、家にあった物を罹災した方に分けました。ええ、あのもう、全部。自分の家にいるだけの物の他は全部、流された人に。うちでもそんなに立派な物は何も無かったのですけれど、それでもうちは家が残ったと言って全部、ご不自由な人に。それは当たり前のことですけど。それで今思い出すんですけど、小学校には子どもたちのために慰問袋が沢山来たんです。ところが「一切貰ってはならん」と言われまして。「家がなくなって苦労している人のものだからお前たちはもらってはいかん」と。
   父は、家はあまり教訓めいたことは言わない無口な人でした。全然家では何も話さない人でした。身長は低かったです。五尺一寸。やっと兵役に合格した位だと思います。それで私がそばにいたから聞こえたんですけれども、自分で独り言のようにして、晩年です、もう。終戦後です。「わしはいつ死んでも、一点恥じるところはない」。私に言ったんではないんです。自分で独り言を言ったんです。
   いつでも机がここにありまして、山が見えるんです。そこでいつでもじっと見ておりましたけれども、「この山に、頭を垂れて、一生」。そうです。私も父の気持ちがよーく分かります。こんなにきれいな美しい山、ありません。愛する山です。この先また恐ろしい山になるかもしれない、だけど愛する山です。ほんとに、うちの前から、こんなにちょうどきれいに見えるんです。自分の家から見える山が一番だと思えるのは幸せです。大雪山も遙かに見えますし、今日は五つの山が真白ですもんね。

*2007年10月10日上富良野の開拓記念館で森下が清野(旧姓吉田)ていさんにインタビューしたものの一部を抄出して整えています。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。