2020年5月22日(金) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 文学散歩 ハジマリニ老人ガ二人バスヲ待ツテヰタ - 『海嶺』の始まりの地・小野浦 その講演会の翌日5月22日、名古屋聖文舎の田中啓介さんが三浦夫妻を知多半島に案内し、美浜町小野浦の「岩吉久吉音吉頌徳記念碑」を訪れ、この三吉のことを教え、小説にしてもらいたいと頼みました。 この記念碑は7年前の1961年4月5日に建立され、西ドイツのハース大使も出席して除幕式がおこなわれました。それにはこのような逸話が残っています。 1960年の8月、熱い西日の照りつけるバス停でバスを待っていた一人の老人がいました。
2020年5月20日(水) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 星野富弘 Silver trace of God’s wind 一度きりの出会いの日 2003年9月、星野富弘さんは旭川を訪れました。15年前の1988年5月20日、綾子さんが群馬県の富弘さんを訪ねて対談したとき、今度は富弘さんが旭川にお出で下さいと言ってくれたからです。その秋、綾子さんが天に召されて四年が経とうとしていました。富弘さんはこの日、念願の塩狩峠を訪れました。そしてその記念に「塩狩峠に咲いていた野菊」という詩画を描きました。
2020年5月17日(日) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 神さまって、エコひいき! 苛酷な冬も、美しい春も、みんな神がくださるのだ。苦難も喜びも、みんな神の計らいの中にあるのだ。「冬来りなば春遠からじ。下血また感謝すべし」癌をわずらったことは、やはり神のめぐみだと思う。神が私をえこひいきしていられるのだと思う。復活のキリストを仰いで歩むべし。
2020年5月15日(金) / 最終更新日時 : 2020年7月31日(金) 森下 辰衛 長野政雄 中村吉蔵(春雨)~長野政雄を導いた友 中村吉蔵(春雨)は、1877(明治10)年5月15日、島根県の津和野に生まれました。18歳で大阪為替貯金管理所の書記補となり、雑誌に小説を投稿するかたわら、国木田独歩らの影響もありメソジスト川口教会で洗礼を受けました。のちには大阪天満基督教会に通っていましたが、その頃職場で出会い、同じ宿舎にいたのが、3歳年下の長野政雄でした。
2020年5月13日(水) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 文学散歩 桜散る神楽岡公園を歩く 2020年5月12日、桜散る神楽岡公園周辺を歩く文学散歩へようこそ。『草のうた』『銃口』『この土の器をも』「雨はあした晴れるだろう」など舞台になっています。
2020年5月10日(日) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 海に満ちる光 ― 『母』小林セキの命日によせて 小説『母』の物語は、この半月ほど前の昭和36年4月のある穏やかな日の午後、セキが、訪ねて来た人に向かって自分の一生を物語るという形式を採っています。この語りの舞台、セキが晩年を過ごした場所は、多喜二の姉である長女チマの嫁ぎ先である佐藤家の離れでした。眼下の小樽の海から石狩湾を挟んで向こうに「増毛のほうの山」が見えました。
2020年5月8日(金) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 三浦綾子と天国の希望 下 『千利休とその妻たち』では、キリシタンの聖堂に行って説教を聴いてきたおりきが、その話を利休に聞かせるくだりがあります。「天国(はらいそ)に人が入るためには、狭い門より入らねばならぬと伺いました。狭い門から入るためには、すべての持ち物を捨てねばなりません。身分という持物も、財産という持物も、傲慢という持物も、美形や学問という持物など、持っては入れぬ狭い門をくぐらねば、天国に入れぬと承りました。それらの荷は、天国では何の役にも立ちませぬ。」
2020年5月7日(木) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 三浦綾子と天国の希望 上 綾子さんが天国というものを初めてはっきりと意識したのは、前川正さんが亡くなった時だったと思います。『道ありき』にはこう書かれています。 わたしはその時になって、初めて天国を思った。昨年の七月、敬愛する西村先生を失い、それから一年もたたぬうちに、前川正も天に召された。当時のわたしは、この世よりも、天国のほうが慕わしく思われてならなかった。
2020年4月27日(月) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 文学散歩 大鵬の少年時代と『天北原野』― モデル仮説 大鵬(納谷幸喜)は1940年(昭和15年)5月29日、樺太の敷香(しすか・現ポロナイスク=ロシア・サハリン州)で生まれました。父は革命を逃れて南樺太に亡命して来たウクライナ人マルキャン・ボリシコ、母は日本人納谷キヨ。しかし、終戦期の混乱で父と生き別れになり、45年8月、母と二人で稚内に引き揚げて来ます。5歳でした。このとき二人が乗った船が小笠原丸。
2020年4月25日(土) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 綾子さんに「生まれてくれてありがとう」 今日は綾子さんの誕生日です。誕生から小学校卒業までを書いた自伝『草のうた』、初出は「わたしは、一九二二年(大正十一年)四月二十五日の朝、北海道旭川市四条十六丁目左二号に生まれた。わたしが生まれた時、すでに兄が三人、姉がひとり、そして、姉のようにして育った叔母がいた」と書き始められています。