2020年9月25日(金) / 最終更新日時 : 2020年9月25日(金) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 『塩狩峠』刊行52年 ― 生き続ける馬鹿力 1968年9月25日、新潮社から『塩狩峠』が刊行されました。新潮文庫として刊行されたのは1973年5月29日。※単行本は9・2・5、文庫本は5・2・9と逆並びになっていて、今日はちょうど52年経った9月25日です。3年後の1976年、新潮社は文庫フェア「新潮文庫の100冊」を始めました。
2020年9月22日(火) / 最終更新日時 : 2020年11月9日(月) 森下 辰衛 星野富弘 いつも前を歩いてくださっている方 ― 富弘さんとの対談の思い出 2012年9月22日土曜日は生涯忘れられない素晴らしい日でした。この日の午後、群馬県みどり市の富弘美術館で、星野富弘さんと共に講演と対談をさせていただきました。2012年は東日本大震災の翌年で、年の前半は被災地に綾子さんの本を贈ろうという活動をしましたが、もう一つの大きな行事が、三浦綾子記念文学館と富弘美術館が交換展、という年でした。
2020年9月17日(木) / 最終更新日時 : 2020年9月22日(火) 森下 辰衛 三浦綾子 「あ、男だった!」ー 初めて綾子さんに会った日 一九九五年九月一七日日曜日。その日は私にとって生涯忘れ得ない日になりました。旭川六条教会で三浦綾子さんと光世さんに初めてお会いした日だからです。この年春から福岡女学院短期大学のゼミの授業で三浦綾子を取り上げて読み始め、前期が終わった夏休みに、ゼミの研修旅行で13人の学生を連れて、初めて飛行機に乗り、初めて北海道に来たのでした。
2020年8月25日(火) / 最終更新日時 : 2020年8月26日(水) 森下 辰衛 文学散歩 いたましくも尊いこと ー 文珠分教場の子どもたちとの別れ 1941(昭和16)年8月25日、歌市内の神威小学校の文珠分教場の二学期の始業式に合わせて離任式がありました。秋から堀田綾子先生は旭川の啓明小学校に移ることになったからです。16歳11か月から19歳4か月までの約2年半、人生で初めて家族と離れて住んだ地神威を、綾子さんは去りました。
2020年8月24日(月) / 最終更新日時 : 2020年8月25日(火) 森下 辰衛 文学散歩 オホーツク土産 釧網線(釧路―網走)の斜里駅は正確には知床斜里駅。1925年(大正14)年、国鉄の斜里駅として開業し、1998年に知床斜里駅に改称しました。駅前には巨大なオジロワシ像が立っています。でも、大事なのはその向こう左に見える斜里セントラルホテル。ここには以前(少なくとも2006年には)斜里館という旅館が立っていました。三浦綾子の一番最初の小説「暗き旅路に迷いしを」で「S館」と記されている宿です。
2020年8月24日(月) / 最終更新日時 : 2020年8月26日(水) 森下 辰衛 三浦光世 8月24日は握手記念日 8月24日は1955(昭和30)年、光世さんが綾子さんを見舞った三回目の日。この日光世さんは「神よ、わたしの命を堀田さんに上げてもよいですから、どうか堀田さんを癒してください」と祈りました。なぜこんな祈りができたのでしょう?前回、2回目の訪問は7月3日でした。そのとき綾子さんは一冊のアルバムを見せてくれました。
2020年7月19日(日) / 最終更新日時 : 2020年7月19日(日) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 「最愛」― 開け放たれた庭にバラが咲いた― 三浦光世の短歌⑤ その日は、彼と初めて会った日のように、美しく晴れ渡っていた。わたしは、開け放たれた庭を、ベッドの上に起き上って眺めた。大輪のバラがほころび、わたしは何かいいことがあるような予感がした。忘れもしない七月十九日だった。三浦光世から部厚い封書が届いた。手紙には、あなたの死んだ夢を見て、涙のうちに一時間あまり神に祈った。役所に出勤しても、しばらく瞼が腫れていたとあり、わたしの名の上に「最愛なる」という字が冠してあった。
2020年7月16日(木) / 最終更新日時 : 2020年7月16日(木) 森下 辰衛 三浦光世 君を想ふ夕べかなしくて ― 三浦光世の短歌④ 君を想ふ夕べかなしくて袖に来し白き蛾を鉢の菊に移しぬ 光世さんが綾子さんと出会って、一年後の夏の歌です。この歌に詠まれた夕べの「かなし」さは、「君」への愛しさでもあるけれども、ギプスベッドに捕われのその人の病状の深刻さを想い心配する「かなしさ」でもあるでしょう。日本語の「かなし」が「愛し」と「悲し」との二つの要素を持つこと、あるいは根源的には一つであって、分けがたい深みでの悶えと祈りの心であることが、よく分かる歌です。
2020年7月14日(火) / 最終更新日時 : 2020年7月31日(金) 森下 辰衛 西村久蔵 貴方は尽きざる愛の源泉でした ― 西村久蔵の葬儀 1953年7月14日火曜日午前10時から、札幌北一条教会で西村久蔵の葬儀が執り行われました。オルガンの前奏、祈祷、森牧師による式辞、そして札幌禁酒会会長(現酪農学園創立者、現雪印メグミルク創立者)黒沢酉蔵、キリスト村入植者代表平林正哉、北星学園園長安孫子孝次、北海道議会議長蒔田余吉、簾舞療養所療養者代表菅原豊(後に同人誌「いちじく」を主宰し三浦夫妻を出会わせた)ら、11名によって弔辞が読まれました。
2020年7月13日(月) / 最終更新日時 : 2020年7月13日(月) 森下 辰衛 三浦光世 夫は妻を自分のからだのように愛すべし 翌7月13日の朝は、二階から階段を降りるのに、今までにないほど難儀しました。一段ごとに尻もちをつくのです。光世さんは綾子さんの左手をとって先導しました。声を大にして励ましても、綾子さんは一段ごとに坐りこみました。光世さんも汗をびっしょりかくほどでした。洗面をする力もなく、熱を計ると高熱でした。熱は午後には39度8分まで上がりました。