中村吉蔵(春雨)~長野政雄を導いた友
中村吉蔵(春雨)は、1877(明治10)年5月15日、島根県の津和野に生まれました(この5年前72年には10歳の森林太郎(鴎外)が津和野を出て東京に移っています)。18歳で大阪為替貯金管理所の書記補となり、雑誌に小説を投稿するかたわら、国木田独歩らの影響もありメソジスト川口教会で洗礼を受けました。のちには大阪天満基督教会に通っていましたが、その頃職場で出会い、同じ宿舎にいたのが、3歳年下の長野政雄でした。その頃の長野はのんきな酒飲みの感じで、信仰の話になると、うちは先祖代々仏教徒でキリスト教は邪教と思ってきたから体質に合わないと、頑なな様子でしたが、中村の勧めによって天満教会に通うようになり、求道ののち、1897(明治30)年7月4日、天満基督教会にて三宅荒毅牧師により洗礼を受けました。
1900(明治33)年には中村は東京に出て東京専門学校(後の早稲田大学)文学科入学。翌1901(明治34)年には、大阪毎日新聞の懸賞小説に応募し、第一位入選を得ました。既に1898(明治31)年に北海道札幌に移住していた長野政雄は親友のこの快挙に歓喜したと言います。その作品が小説『無花果』で、後に三浦綾子の『塩狩峠』に登場し永野信夫がそれを読んで大いに影響を受けるというストーリーなっています。ただし『塩狩峠』では中村春雨は永野信夫よりかなり年上に設定され、また『無花果』のストーリーも一部改変されています。
中村吉蔵(春雨)は1906(明治39)年よりアメリカ、ドイツに留学して演劇を研究。帰国したのは1909年12月で、同年2月に既に長野政雄は塩狩峠で殉職していました。同年の後半の時期に、中村吉蔵は「長野政雄君と私」という追悼文を書いています。長野政雄との出会いや求道、長野が北海道に渡るとき三宅牧師と共に梅田駅で見送ったこと、1903(明治36)年夏には旭川に長野を訪ね、日曜学校の校長として大いに尽力している様子を見てその信仰の成長純化に感心したが、それが今生の別れになったことなど、思い出を書いたのち、こう結んでいます。
キリスト教が長野君の生命であったのだから、その生命によって、彼の生命を説明し得たものであるから長野君は満足な死に方なのだろう。長野君は満足して死んだが、君の友人である私は深く君の覚悟を悲しんでいることも告白しなければならない。そのことは君の霊も許してくれると思っている。
留学から帰国後の中村春雨は、新社会劇団を主宰して社会劇「牧師の家」を上演。島村抱月の藝術座に加わり、松井須磨子の当たり役となった「剃刀」などの戯曲を書きました。日本へのイプセンの紹介に努めると共に、早稲田大学教授に就任し、演劇史を講じるなど、演劇界で活躍しましたが、信仰は次第に失っていったようです。1941年のクリスマスイヴに64歳で亡くなりました。
※主な参考文献として『故長野政雄君の略伝(復刻版)』(旭川六条教会)、『塩狩峠、愛と死の記録』(中島啓幸著・いのちのことば社 フォレストブックス)ほかを使いました。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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