2020年11月18日(水) / 最終更新日時 : 2020年11月18日(水) 森下 辰衛 文学散歩 「枯木に花も咲くからなあっ!」-大正15・11・18復興反対集会の拓一 1926(大正15)年11月18日、「十勝岳爆発による泥流罹災地は絶対復興の見込なく、多額の費用を投ずるは無意味に国費を放棄するものである」と主張する復興反対期成会(会員約15名)によって、上富良野村市街地で村民大会が開かれました。会場となった三共座は大正時代に栄えた共楽座が経営不振になった後を引き継いだもので、後に新築されて永楽座、更に上富良野劇場と名前を変えてゆきます。
2020年9月26日(土) / 最終更新日時 : 2020年9月26日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 洞爺丸遭難事件と『氷点』 『氷点』の懸賞小説入選が決まって間もなく朝日新聞からの依頼で、新聞小説の一日分三枚半を三枚強に書き直すことになったとき、光世さんが洞爺丸遭難事件のことを入れてはどうかと提案して、二人は函館まで行って調べることにしました。エッセイ集『それでも明日は来る』を見ますと、『氷点』連載半年ほどたった昭和40年5月、三浦夫妻は函館教育大学の美術の教授渕上巍氏を紹介されて、体験談を聴きました。
2020年8月16日(日) / 最終更新日時 : 2020年8月16日(日) 森下 辰衛 西村久蔵 岡藤丑彦 ― 西村久蔵の友 翌年の秋、突然O君は私の駐屯していた張家口をはるばる尋ねて来た。そして身を北京の朝陽門外の聖者と言われていた清水安三先生宅に置いた。彼の北支を訪れたのは長い長い真剣な祈りの結果、主のお答を得てのことで、その主因は「西村は軍隊に籍のあったばかりに、殺戮の戦場に立たねばならぬ。私はその罪の償いとして中華の人に奉仕せねばならぬ」という信仰からの決断であった。病後の身で妻子三人を残し、汽車賃百円だけ持っただけで主の御旨を堅く信じて戦乱の北支に来たのであった。
2020年7月14日(火) / 最終更新日時 : 2020年7月31日(金) 森下 辰衛 西村久蔵 貴方は尽きざる愛の源泉でした ― 西村久蔵の葬儀 1953年7月14日火曜日午前10時から、札幌北一条教会で西村久蔵の葬儀が執り行われました。オルガンの前奏、祈祷、森牧師による式辞、そして札幌禁酒会会長(現酪農学園創立者、現雪印メグミルク創立者)黒沢酉蔵、キリスト村入植者代表平林正哉、北星学園園長安孫子孝次、北海道議会議長蒔田余吉、簾舞療養所療養者代表菅原豊(後に同人誌「いちじく」を主宰し三浦夫妻を出会わせた)ら、11名によって弔辞が読まれました。
2020年7月12日(日) / 最終更新日時 : 2020年7月31日(金) 森下 辰衛 西村久蔵 「いま、うちのおとうさんが、死んだよう」 1953年7月12日午前8時15分、西村久蔵は55歳の生涯を終えました。心臓の弁の故障を抱えての過労による衰弱に加え、10日には脳溢血で意識不明になりましたが、一旦回復。しかしその後「見るに耐えないほどの苦しみ(金田隆一)」を経て、召されてゆきました。