馬鹿力 ばかぢから ― 信仰の角度から見た人生の物語 森下辰衛
彼女にふられて初めて読んだ聖書
私は岡山県小田郡矢掛町という平凡な田舎に生まれました。両親と兄、祖母、叔母(母の妹)という家族の中で、愛されて育ちました。兄は小さい頃から驚くほど賢くて可愛くて、それに比べると私は元気がいい以外に何の取りえもない洟たれ小僧でした。それでも母は、「たつえには、個性がある!」と褒めてくれました。「個性とか、誰にでもあるわ!目がある、鼻があると変わらないじゃないか!」と気づいたのは、少し大きくなってからでした。褒めるところが見つからなかったとしても、母というものは、無茶苦茶でも無理矢理でも「お前も、ええぞ!」と言ってくれる、ありがたい存在なのでした。
家は真言宗と地域の氏神様という宗教で、幼い頃は仏壇にご飯を上げてチーンとし、朝早く隣のお婆さんと一緒に神社にお参りするというとても信仰的な(信心深い)子どもでした。鳥居の前で足先を揃えて頭を下げ、本殿の前で頭を下げ、柏手を打ちました。宗教的な中身などないのですが、それでも、何か自分を超える大きな存在の前に頭を垂れることを学んだことは、ありがたいことでした。
私がはじめて聖書を読んだのは大学一年の時でした。高三の時からお付き合いを始めた彼女と文通していて、ある日彼女から手紙が来たので喜んで開けると、「あなたとお付き合いするのはやめます」と書いてありました。いきなり何という鉄槌!私はガーンと頭をなぐられたみたいでした。ところがその手紙の最後に「私は聖書の中のコリント人への手紙第一の13章が好きです」と書かれていました。彼女がクリスチャンだったとは思えませんが、どこかで知っていたのでしょう。それで聖書というものを探しましたら、同じ下宿の友人が、「確か入学式でもらったのがあるよ」と探してくれました。しかしその聖書は彼の押入れの奥で正真正銘の漬物状態になっていて、えんじ色の筈の布表紙はカビで真っ白でした。私はそれをありがたく頂戴して雑巾でゴシゴシこすってからコリント人への手紙という所を開きました。そこにはこう書かれていました。「たとい私が、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、私はやかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。」私はまたもや頭をガーンと殴られました。「お前のは愛じゃない。うるさいだけだ」と言われたみたいでした。さらに読むと「愛は寛容であり、愛は情深い。礼儀に反することをせず」「人のした悪を思わず」云々。またガーンとなって、自分が愛だと思っていたものが、愛ではなかったのだと知りました。
捨て猫だったころ、出会った三浦綾子
はじめて三浦綾子の本を読んだのは23歳の時でした。大学四年も終わる2月、卒論と大学院の受験で体力を使い果たした私は、高熱で倒れました。40度の熱が何日も続き、寝がえりも打てなかった時、電話が掛かって「森下君、残念だけど○○大学の大学院、落ちてたよ。」結局、受験した大学院、全部落ちていました。その報を朦朧として聴き、病院に行って採尿すると尿が真黒でした。即入院、面会謝絶。A型肝炎で劇症になる寸前でした。生死の境を彷徨い、二カ月ほど入院して助かりました。ところが、ありがたいことに、卒業した大学にその年ちょうど大学院が出来たので、そこに入れてもらいました。しかし心身共に疲れ果てて、休みたいような、死んでもいいような気持ちでいました。その夏のある日、なぜか大学前の書店に平積みされていた新潮文庫の百冊の『塩狩峠』を買って読んだのです。私はまた殴られたような気がしました。「死ぬんならこういう風に死ななくちゃ!」それから三浦綾子を少しずつ読むようになりました。
それから五年後、大学と大学院、合わせて九年目でした。それぐらいどんづまると、学問にも人間関係にも行き詰まり、何よりも自分の能力に壁を感じ、先に卒業してちゃんと働いている元同級生に「森下くん、まだ学校にいるの?」なんて言われるのにも耐えなければなりません。経済的には困窮し、親に顔向けできなくて、将来は見えませんでした。
その頃、私は古い木造の長屋式の下宿に住んでいましたが、余りに古くなって来て、大家さんが「もう最近の新入生には向かないから、新しく下宿生を入れないので、六部屋どれでも森下さんが好きなように使っていいですよ」と言ってくれるという物でした。そういう所に、人はなぜか捨て猫をするのです。ある日敷地の隅で鳴いていた子猫を見つけて捕まえ、ダンボール箱で飼いました。三匹もいました。ミルクを皿に入れてやりましたが、小さい猫はミルクをなめることを知らないで、皿の上を歩くのです。これでは死んでしまう。この子たちにはおっぱいが必要なんだ。でも俺はおっぱい出ないし……、どうしよう?そのとき、思いついたのが昔理科の時間に使ったスポイト、あれならいいかも。それで薬局にいくとビニールの柔らかいスポイトが20円で売られていたのです。それで一匹ずつだっこして、スポイトでミルクをやるとチュッチュッと吸ってくれて、乳児期を乗り越えました。少し大きくなると、ミルクだけではいけません。キャットフードが必要です。しかし、貧しい生活の中、キャットフードを買うと自分が食べるお金がない。でも猫にはキャットフードが必要。それで自分は、パン屋に行くと食パンの耳だけがぎゅーっと入って80円で売ってる、あれを買って食べました。私がパンの耳を食べてると向こうで山盛りにしたキャットフードを三匹の猫がボリボリボリボリ。クソッ、いっぱい食いやがって!見ているうちに、見比べて、このパンの耳とキャットフードとどっちが栄養バランスが良いかな?あっちの方がましだよな。俺も一緒に食べようかなと何度も思いましたが、いや待て、あれに手を出したら、わずかに残った人間としての尊厳まで失ってしまう。そう思って耐え忍びました。その頃、その猫が私の暖房器具でした。北海道でなくて良かったです。猫は温かいところが好きですから、寝ていると布団に入ってきます。一匹は脇の下、もう一匹は反対側、そして三匹目は股の下です。そうやって寝ると、朝、私より少し早く目覚めた猫が私の鼻の頭を痛くないぐらいちょっと噛むのです。それで目が覚めた私が戸を開けてやると、猫たちが三匹、外へ出ておしっこしてくるのです。もう、どっちが主人だか分からない状態です。そんな私と猫たちと、肩を寄せ合いながら「俺たち、どうなるんだろうね?」という生活でした。つまり、私自身も捨て猫のようだったのです。
黄色い天使たち
その頃、一人の人と出会いました。その人がある日曜日のお昼に電話してきて、教会に誘ってくれました。「午後から三浦綾子さんの映画をするので観に来ませんか?」初めて行った教会は平屋の古い小さな民家で、引き戸をガラーッと開けて、靴を脱いでよっこらしょっと上がると、畳がゆっさゆっさして、会堂の中に柱があるような教会でした。行くとお月様のような笑顔のおばちゃんが出てきて「うふふふ、私が牧師なのよ」と言うので、びっくりしました。しばらくして集会に通うようになりましたが、はじめは、救いとは何か、祈りとは何かと理屈で考えていました。それからしばらく後、ある家庭でのクリスマス集会の時でした。美味しいものを食べられることに期待して行きましたら、その日は牧師先生が古ーいスライド(スライドというものが発明された頃のじゃないかと思えるような)を持ってきてクリスマスの物語を語ってくださいました。羊飼いたちが野宿で羊の群れを見守っていた所に、突然天使が現れました。「恐れることはありません。……きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」するとたちまち、「もろびとこぞりて」のBGMで、天の軍勢が現れました。天使とか天の軍勢というのは普通白いものだと思うのですが、なにせ古いスライドの絵なので、黄色くて同じ顔したのが電柱のようにずらっと並んでいるのです。ところが、不思議ですけど、それを見た時、クリスマスのすごさが圧倒的に分かったのです。神が人間になってこの世界の歴史の中に現れたのだ!チキン肌になりました。しかし私にはまだ自分の罪は分っていませんでした。
助けてください!
半年ほど経った夏の特別伝道会。ルカの福音書10章の“親切なサマリヤ人”の箇所が開かれました。ある人が道で強盗に襲われ身ぐるみはがれて半殺しにされる。そこを通りかかった始めの二人は見て見ぬ振りして行ってしまいますが、次に来たサマリヤ人が助けてくれるという話です。私は何度も読んでいて、このサマリヤ人みたいに人を愛し人助けをして生きたいと思っていました。ところが講師はその日、「この強盗に襲われて血だらけになって倒れている人、これがあなたなのですよ」と語られました。私はそれまでイエスを神だとは認めながらも、私も見習って良いことをしようという風にしか考えていなかったのです。しかしその日、人を愛そうと思いながら本当には愛せない私が、そのために人を傷つけ、自分も傷つき、血だらけになって倒れていることがはっきりと分かりました。愛せない苦しみと後ろめたさの地獄のなかで出血多量で死にかけているのに、まだがんばるぞ、イエスなんか必要ないと言っている私。それがいかに傲慢でへんてこで、危ない罪人か分かったのです。怖い!このままでは出血多量で死んでしまう。私は滅びる!と思いました。イエス様、来てください。救ってください。私は叫びました。1990年7月26日でした。
うれしい馬鹿になる
その時私は、どぶに落ちた捨て猫のような私を、神さまが拾ってくださり、その腕に抱いてくださったことが分かりました。「泥だらけになったね、冷たかったね、ひもじかったね。でも、もう大丈夫だからね」と言ってくださる。なんて優しい方なのだろう、本当にありがたいと思いました。
それから不思議なことに、福岡にいる先輩から電話が来て、「今福岡女学院短大で、日本近代文学やキリスト教文学を教える教員を募集しているから応募してみないかい?ダメかも知れないけど」と言うのです。「ダメかも知れないけど」は余計だ!と思いながら、応募書類を作って送りました。書類には写真を貼らなければなりませんが、写真屋さんで写真を撮るお金がない。それで友達に撮ってもらいましたが、スーツもないので、よれよれの上着。ネクタイをしないと格好にならないので、くたびれたビニールロッカーを探すと、一本だけ見つかったのは葬式のネクタイです。どうせ必要なのは上半身の写真だから下は何でも良いだろうと、下半身は短パンでした。それから、部屋の中は暗いので外で撮ろうということになって、うかつにも下宿の駐車場で撮ったので、出来上がってみると、後ろにあった金網の上部の鉄パイプが頭を貫通している写真になっていました。その上、素人が現像したので、口の所に糸くずがついていて、この人はミミズを食べているのか?というように見えました。
それでも、その写真で合格。突然野良猫が大学の先生になったのです。信じられませんでした。それで1992年4月、就職してすぐ、教会に誘ってくれ、写真を撮ってくれたその人と結婚しました。それから四人の娘が次々と与えられました。
私は、洗礼を受けた時、イエス様のためなら何でもするぞ!と思いました。キリスト教主義の大学に仕事を与えられた時、命がけで働こうと思いました。結婚した時も、この人のためなら何でもしようと思いました。人は感動し感激し感謝すると、馬鹿になれるのです。これは、うれしい馬鹿です。でも悲しいことに、時が経つと人はまた段々賢くなってきます。教会や学校や周りの人を批判的に見、結婚した相手を客観的に見る。結婚してしばらくして「こんな人だったのか?!」と思わなかった人はいないでしょうけれど。そして賢くなると、損得計算して動くことを覚えるのです。その利口さは人を不自由にし、私らしさを奪います。福岡女学院での最初の何年かキラキラ輝いていた私の周りには学生が集まってきて、何人も信仰を持ち、神学校に行った学生もいました。でも賢くなった私は、次第にテカテカしているだけのおやじになって、働きは停滞してゆきました。
それでも、1995年三浦綾子を授業で取り上げてから研究を始め、学生を連れて旭川を訪ね、三浦夫妻にもお会いしました。綾子さんは既にパーキンソン病と闘っておられましたが、学生たちに素晴らしいお話をして下さり、震える手で書いたサインの入った文庫本をひとりひとりにプレゼントして下さいました。学生も私も本当に感激しました。この授業を通して学生が本当に成長し変わってゆくのを見た私は、本格的に三浦文学に取り組む決心をしました。綾子さんとは99年までの数年のおつきあいしか許されませんでしたが、2001年には三浦光世さんを福岡にお呼びして講演会を開き、二日間で約2000人の方に聴いていただきました。それを機に福岡と後には九州各地で三浦綾子読書会(当時は「三浦文学を語る会」)を始めました。学生の素晴らしい成長を見て、一般の方たちとも一緒に三浦文学を読んでみたいと思ったからです。その活動の中で、ちょうど三浦綾子読書会の全国展開を進めていた長谷川与志充牧師(三浦綾子読書会の初代代表)とも出会い、更に多くの出会いが与えられてゆきました。
貧しい者の開拓地には多くの食糧がある
福岡女学院に14年勤めた2006年春、大学が一年間の研修を許してくれたので、家族六人で旭川に行って三浦綾子の研究をすることにしました。勉強して論文を書いて一年後に福岡に帰ったら、助教授から教授になると約束されていました。渡道直前の頃、聖書を読んでいましたら、旧約聖書の箴言13章の「貧しい者の開拓地には多くの食糧がある」という言葉が心に留まりました。なぞなぞのようでした。でも、それを一つの問いかけとして受けとめつつ、学んで来ようと思いました。三浦綾子記念文学館に特別研究員という肩書を許可してもらい、研究と講演をし、三浦綾子読書会を各地で開きました。そうする内に私は、箴言のあの謎かけのような言葉を「貧しい結核療養者だった綾子さんが開拓していった文学の土地には、この国の魂を養う豊かな豊かな食べ物が実った」と解釈しました。それは間違ってはいません。しかし、秋が始まった頃、この同じ言葉が全く違う意味に聞こえるようになりました。「お前は道東や道北の町々に行って、貧しい開拓の戦いをしている教会を幾つも見ただろう。三人や五人でやってる教会。教会が撤退してなくなってしまった町、教会など一度もあったことのない町。でもお前がそんな町に行って三浦綾子を語ったとき、どれだけ沢山の人が聴きに来てくださって涙して喜んでくださったか。忘れることなどできないだろう。次はいつ来てくださるんですかと問われただろう?それが、お前の開拓地だ。そこにお前の食糧がある」と。こんな風に聞こえてきたとき、私は思いました。聞かなかったことにしよう。これを聞いたら大変だ。苦労して大学の先生になって、このまま帰れば教授になれるのに、ここで道を間違ってはいけない!我が家には四人の娘と普通の勤めをして働くのは難しい健康状況の家内。大学を辞めてどうやって子どもを学校にやるのか!無理に決まってる。それでも胸の内には葛藤がありました。ところがそんなある日のこと、家内が私の顔をじっと見ながら言うのです。「ねえ、神さまが何か言ってるんじゃない?神さまが福岡に帰るなって言ってるんじゃない?」耳を疑いました。うそーっ、なんでばれたの?でも、こうなっては仕方ないので、それから毎日、夫婦で聖書を読んで祈って話し合い、聖書を読んで祈って話し合い、それを繰り返しました。そうするとまた家内がある朝、申命記30章の「私はいのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」という言葉が心に与えられたと言うのです。「神さまは、『わたしはあなたをあなた一人では到底行くことができない所まで連れてゆこうと思って用意しているのに、どうしてあなたは恐れてまた元の道を引き返そうとするのか?恐れてはならない、引き返してはならない。エジプトへ帰るな』とおっしゃってます」と言うのです。その時一瞬、彼女がモーセに見えました。さらに彼女はこう言うのです。「私たちの人生は必ず終わります。でも神さまが喜ばれる道を行って死ぬのと、神さまが喜ばれない道を行って死ぬのと、その人生の意味は全く違うと思います。このわずかに残った貯金を食いつぶして飢え死にしなければならなくなったら、一緒に死にましょう。」普通奥さんというものは「あなた、そういう馬鹿なことはしないで」と言って足を引っ張るのが普通でしょう。どうしてこの人は足をひっぱってくれないで、むしろ十字架に押し上げようとするのか!?と思いました。
もうほとんど勝ち目はなくなってましたが、それでも私は抵抗していました。たまたま塩狩峠に行く機会があり、塩狩峠記念館横の枯葉の舞い始めた林を彷徨い歩いた私は、一番高い所にある大きな白樺の樹にしがみついて、祈りました。泣きべそかきながら。「どうして大学を辞めないといけないのですか?中学2年から小学1年までの四人の娘たちを、どうやって学校に行かせるのですか?」大学を辞めれば、定収入がゼロになるのです。三浦綾子読書会は給料なんかない。どうかすると赤字で開拓に行くのです。支えてくれる教会も教団もない。文学館の特別研究員も名乗らせていただいているだけですから、無給でした。奥さんはあんな偉そうなこと言ってるけど全く働かない人!どうしてくれるんですか?そう訴えた私に神さまが語られました。「狭い門から入りなさい。」私は腹が立ちました。「神さま、そんな無茶を言うんなら、もっと広い道を用意してくださいよ!」神さまほど冷たい方はないですね。愚かな言葉で突き飛ばしてくるんです。でも、放っておかないのも神さまです。
それから数日後、ついに私にも言葉が与えられました。「見よ、あざける者たち。驚け、そして滅びよ。私はおまえたちの時代に一つのことをする。それはおまえたちにどんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである」という使徒の働き13章の言葉でした。「そんなの無茶だよとあざける声が外からも内からも聞こえるだろう。でも、にもかかわらず信じて、にもかかわらず愛して、にもかかわらず従う馬鹿になってみないかい?わたしは、お前の時代に、お前の人生の中で、お前を使って、お前と一緒に、とうてい信じられないほどのことをしたいと思っているんだよ」と、神さまが手を差し出してくださっているのが分かりました。私はその手を取ることにしました。「神さま、本当ですね?嘘だったら承知しませんよ!」と言いながら。
それで11月のはじめ、私は福岡女学院に辞表を出しました。福岡のマンションを売ったら残債が出て、退職金がきれいになくなりました。年度が変わった春、本当に定収入がなくなりました。釧路に出かけると往復の都市間バスと宿泊で15000円かかりました。釧路読書会では7人の人が参加費を一人300円ずつ出してくださって、それをいただいて帰るのです。「パパ、うちはホームレスになるの?」と子どもに訊かれました。川の土手に生えているつくしを食べ、フキノトウを食べました。北海道の人はつくしを食べる習慣がないので、ある時学校で子どもが「森下のところはつくしを食べてるんだって?」とみんなに笑われて、「パパ、お願いだから学校の近くではつくしを取らないでね」と懇願されました。どんどん減っていく一方の銀行の残高。もう、どれくらいで破産状態になるか、見えている状況でした。時々不安になるたび、私は地にひれ伏して祈りました。ところが、家内はこうも言いました。「グジグジしてる大学教授より、明るいルンペンの方が、ずっと良い!」本当に明るくてすっきりしているので、感心しました。
とうてい信じられないほどのこと
それから13年余り。約束通り、とうてい信じられないことが沢山起きました。札幌の読書会再開拓では、カラーのチラシを作って近郊の150の教会に送って懸命に祈ったのに一人しか来ませんでした。しかもその人は、チラシを絶対見てない人でした。目の見えない方だったのです。神さまがこうおっしゃってるようでした。「カラーのきれいなチラシなら人がたくさん来ると思ったか? たくさんの教会にお願いすれば人がたくさん来ると思ったか? 一生懸命祈れば、人がたくさん来ると思ったか? 何か間違ってないか? お前は知ってるだろう。三浦綾子が『氷点』を書いたとき、彼女はまだ応募する素人だった。だからこの作品は世に出ないかも知れない。でも、審査員のお一人は必ず読んでくださる。その方に神さまの愛が届きますようにと祈りながら書いたと知ってるだろう? それが三浦綾子の心だろう? お前は間違っているだろう? ほら今日は、この一人の人をお前の前に置いている。この人に心をこめて語りなさい」と。私は砕かれました。それから、一対一で、その人に心をこめて講演しました。するとしばらく語ったとき、その方の見えない目から、透明な涙の粒がポロポロこぼれたのです。びっくりしました。それは、クリスタルか宝石の粒のようでした。私も涙がこぼれそうでした。それから、その方はずっと集い続けてくださいました。不思議なことに、次第に人が集まるようになり、近隣の町々に広がって、広がって、今ではそこから始まった道央道南の読書会だけで20か所ほどになりました。函館では福岡女学院の卒業生が読書会を通して洗礼に導かれました。そして北海道に3か所しかなかった読書会は40以上に、全国では200ほどになりました。多くの人が信仰を持ちました。富弘美術館と三浦綾子記念文学館が交換展をしたときは、富弘美術館で星野富弘さんと対談させていただいて一緒に三浦文学のすばらしさを語りました。三浦綾子読書会と三浦綾子文学館の共働で東北の被災地の方々に一万数千冊の綾子さんの本を持参してお贈りし、大きな喜びと感謝の反響を頂くことができました。テレビやラジオにも出演しました。地元の旭川医科大学からオファーをいただいて、二年間だけでしたが非常勤講師として授業を担当させていただきました。一学期15週間つまり15時間、はじめから最後まで全部三浦綾子を語りました。自分でやりながら、国立大学の医学部看護学部でこんなことが許されて良いのか?と思いました。二年目には、同時中継のシステムが導入されて北海道大学の学生さんも受講してくれました。三浦綾子読書会の会員の方々が献金してくださるので、学校はじめ若い方々が聴いてくださる所には三浦綾子の自伝小説『道ありき』を持参して(一番多く持って行ったのは東北学院大学の特別集会で400冊)、読みたい方にプレゼントすることができました。研究者としての業績などほぼ諦めていた私だったのに、小学館から『「氷点」解凍』という本を出していただきました。私の背中を押してくれた家内は、ある日突然に童話を書き始めたかと思うと、あれよあれよと言う間に童話集が出来て出版されました。子どもたちは高校卒業までは携帯もスマホもなし、受験生でも浪人生でも塾も予備校もなし、大学受験も一人一校だけという状況で、良く耐えて勉強してくれました。
大小含めて一年に330回ぐらいの集会をし、約60回飛行機に乗って日本中を飛び回っていますが、交通機関の問題で行けなくて集会ができなかったということが、ほぼありません。地震、台風、雪、鉄道事故、いろんなことがありますが、なぜか行けるのです。でも帰りはしばしば留められます。
でも、それらのことよりも、もっと素晴らしかったことは、私が馬鹿になって歩き始めたとき、一人また一人と助け手が現れて、一緒に馬鹿になってくれたことです。そしてその方々も、馬鹿になる楽しさと、奇蹟を見る喜びを知って行ったのです。三浦綾子記念文学館には、私が推薦した三浦綾子読書会の仲間二人が、それぞれの仕事やそれまでの場所を捨てて旭川に来てくれて、良い働きをしてくれています。文学館や読書会で持たれる様々な講座を受講してくださった方々は、三浦綾子文学案内人として、三浦綾子を語る語り手として、あるいは読書会リーダーとして成長して、生き生きと働きながら、豊かな出会いの喜びを体験してくださっています。そして、私は日本中を歩いて、たくさんの方に語り、たくさんの方に出会い、綾子さんの物語と言葉に励まされて生きているたくさんの方々の素晴らしい体験を聴いています。まさにそれが私の食べ物です。
きっとこれからも、にもかかわらず信じ、にもかかわらず愛し、にもかかわらず従う心を失わない限り、信じられないほどのことは、とどまることなく溢れ続けるに違いありません。