“一番大切だったもの” ~榎本保郎と三浦綾子、二人のアホウが照らす道 (抄)

2017・9・26 榎本保郎召天40年記念講演会(神戸聖愛教会)
キリストのアホウの作家

昨日、恵先生に、今日の題について言われました。
「ひとの父親を勝手に『アホ』とか、よく言うわ。」
でも、三浦綾子文学では「アホウ」は最大の賛辞です。三浦文学で最高にすごい人の一人は『塩狩峠』の永野信夫でしょう。彼が、ふじ子さんとの結婚を決めたときに、「あんな寝たきりのおなごを嫁はんに決めるなんて、アホや。話にならん」と言われたときに「アホウです。わたしはキリストのアホウになりたいんです」と答えます。この『塩狩峠』、明治42年2月28日に塩狩峠で起きた列車事故。暴走した客車を主人公永野信夫が自分の身をもって止めて死んだ事件が中心です。
     客車は不気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。
 滅びに向かって暴走する人類を自らのからだと命をもって受け止めて、になって、下敷きになって、止めた方、イエス・キリストを示しています。でも、もう一つ。三浦綾子の人生の告白がある。こうしてアホウになって命がけで、暴走する私を止めてくださった方がいたという、キリストのアホウの作家になった三浦綾子の告白が。損得勘定、放り投げて、にもかかわらず信じて、愛して、従うのが、アホウです。三浦綾子は伝記小説では、そんなになってゆく人ばかり書きました。『ちいろば先生物語』も勿論その代表作の一つです。

つゆ知らねど

 1972・12の「アシュラム」に榎本先生は、自分の現在の心境であると書いて一つの讃美歌をあげています。
     わが行く道いついかに なるべきかはつゆ知らねど 主はみこころなしたまわん
     備えたもう主の道を 踏みてゆかんひとすじに
 改めて歌ってみると、これはひどい歌ですね。言わば、“バカのテーマソング”ですね。
 水野源三さんの生涯を描いた映画「瞬きの詩人」を見ていますと、源三さんに伝道した宮尾隆邦先生がいつも歌っていたのが、「わが行く道いついかに」でした。宮尾先生は長野県坂城町で生まれ、四国高松で伝道していた牧師でしたが、自分が進行性筋萎縮症だと分かって、教会などない郷里の田舎町坂城に帰って開拓伝道を始めました。不便な山の上の開拓村に住んで、弱い足を引きずって下り坂の行きは一時間、帰りは三時間の山道を歩いて源三さんを訪問してくれました。この馬鹿な人がいて水野源三は死にたい地獄から救われて、ありがとうでいっぱいの器になってゆく。そして、やがてその瞬きからあんなに豊かな神の国が溢れ始めるのです。
 水野源三と三浦綾子と榎本保郎。一人は信州坂城で、一人は北海道旭川で、もう一人は今治或いは近江八幡で、弱さと闘いながら、いいえ闘いはしない。弱さの中で、弱さによって、しがみついて、砕かれて、圧倒されて、抱きしめられて、書いたのです。
 常に病気だった三浦綾子の小説、生涯一度も教会に行くことの出来なかった水野源三の詩、肝硬変の苦しみを引きずりながらアシュラムセンターの階段を這うように上っていって書かれた榎本保郎の『一日一章』。全部、そんな著作です。
 『ちいろば先生物語』の中の、保郎の言葉を思い出します。
    「弱いからこそ、しがみつくんや」
 弱いから砕かれて、ボロボロになって、でもその時にこそ、見えるイエスさまのお顔があるんや。聞こえてくる言葉があるんや。
 互いを学ぶべき師とし、友とし、希望として、三人は生きた。でも、綾子さんは一度も源三さんには会えなかった。1975・1・6榎本保郎は水野源三を訪ねました。保郎は、そこに天使のような顔、満ち足りた心、聖なる雰囲気を感じ、一切を任せ切った信仰を見た、と書いています。この時の榎本保郎に残された時間はあと二年半しかなかった。彼にとって、水野源三は、どんな希望になったのだろうか?と思うと、涙が出そうになる。
 天国には天国テレビというのがある。今日は、天国テレビの特別番組、神戸聖愛教会からの生中継を三人で見ていて下さるでしょうか?「またあのバカがしゃべっとるわ」、「バカはバカだけど、信仰はイマイチだね」「それにしても人のことをアホウとか、失礼なやっちゃなあ」なんて、笑いながら見ていてくださるといいなと思います。

向こう岸へ渡ろう

「アシュラム誌」毎号の巻頭言を読んで思ったのは、それが単なる聖書の解説や信仰のお勧めではないということです。ちいろば先生自身のイノチガケの証しがあるということです。
 1975年5月

神様が私たちを愛された愛にこたえて行こうとすると、私たちは自分がつぶれそうに思う。事実、イエスさまは十字架上につぶれられたのだから、つぶれるのが当然である。問題はつぶれるまで主に従ってゆくかどうかということである。

 こんなこと、良く書けるなと思います。書いただけじゃなく、本気で自分もそうしようと決めて書いてるんです。
 肝炎で入院中、列王記上の「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか?」という声を聞いてしまったことは『ちいろば先生物語』にも書かれています。「治ったら伝道しよう」と思っていたのに、「あなたはここで何をしているのか」「出て来なさい」を聴いた。「寝ていなさい」ではない。出て行ったら死ぬかも知れないと恐れていたエリヤに神が語ったことばを自分への言葉として聴いてしまう。何て馬鹿なんでしょう。
 1975年6月には「もう時がない」と題して、岡山県の長島に聖書学舎を創設された原田先生という方のことを書いています。「もうこれ以上イエスさまをお待たせすることはできない」と言って50歳ですべて捨てて長島に移動した原田先生のことを書きながら、しかし、彼は同じ50歳の自分に問われていることを、証してもいるのです。
 「もう時がない」という黙示録10章の言葉に迫られた榎本先生。そこに主の切迫した声を聞いた榎本先生は、「もうこれ以上イエスさまをお待たせすることはできない」と、この6月号の原稿を書きながら、75年5月今治教会に辞表を提出、8月には決別説教をする。
 そして、一年半後のアシュラム誌には、そこまでの経緯を書いています。

わたしは或る日の密室で「向こう岸へ渡ろう」と言う主イエスの言葉を読んだとき、このお言葉をアシュラム運動への召命と受けとめた。今日のキリスト教界の現実をごらんになった主イエスが、ご自身の同労者としてこのわたしを召し遣わそうとしておられるのだと感じた。
 しかし自分をふりかえるとき、その貧しさを思い、現実のキリスト教界を思うとき、その困難さに恐れを感じ、親しい交わりの中にある教会員を思うとき、断ち難い情愛を覚え、行く末の生活を思うとき、そのきびしさに足のすくむのを感じた。そして二年間わたしは何とかしてこの召命から逃れようともがいた。しかし、静かな夜、ふと目を覚ますと、耳元で「向こう岸へ渡ろう」という主の声が聞えて来、わたしは狼狽した。そうした頃に、私は聖地に旅し、朝早くガリラヤ湖畔にたたずみ、ひとりで祈っていた時、「向こう岸に渡ろう」という強烈な主イエスの迫りを感じ、最早この主のみ言葉から身を避けることができず、心ひそかに決心したことであった。流れ出る涙と共に心は全く日本晴れのようにすがすがしかった。わが心定まれり、わが心定まれり、と詩篇の言葉を口ずさみながら立ち上がったあの時のさわやかな心は忘れ難い。
 しかし、旅から帰り、日常生活に戻ると、再びあれは一時の感情ではなかったのかという思いが起きて来、せっかくの決心もぼやけだした。これでは大変と私はだれにも相談せず、教会に辞表を提出し、自ら後へ下がれぬようにとどめを刺した。その間実に二年の歳月を要した。

 迷う自分に“とどめを刺した”という言葉、ゾクッとしますね。この証しを読んで打たれた綾子さん、翌月12月の「アシュラム」誌のエッセイコーナー「壺」に、祈ることは、自分を吟味することだと学んだと、書いています。

でけへんのや

 1977・7・25付「アシュラム」誌巻頭言「瞑想」。これが最後の巻頭言です。この日付の日、榎本先生は、ロサンゼルスの病床で腹膜潅流手術を受け、翌々日には亡くなるのです。この最後の巻頭言は「新しく生まれなければ」という題でした。

 主イエスは十字架を前にして云われた「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12:23以下)主イエスでさえ、死ななければ栄光を受けることはできなかったのである。あなたは聖書に通じているか、それは良いことである。奉仕に熱心であるか、人々によき証しとなるであろう。几帳面な信仰生活を送っているか、それは大事なことである。しかしもし、あなたが死ななければ、それらはすべて人間の世界から一歩も出ることはない。決定的なことは、あなたが死んでいるかどうかである。もし死ななければ多くの実を結ぶことができない。
 さて、一体死ぬとはどういうことなのだろうか。死ぬとは文句を言わなくなることであり、明日のことを思い煩わなくなることである。

 原本の「アシュラム」誌を見ますと、この後に約6行の余白があります。榎本先生が書いた巻頭言のページで、最大の余白なのです。体力がなくて、短くなったのでしょうか?もうこれ以上必要ないと判断したのでしょうか?理由は分かりません。でも、この余白が語りかけてくる。気がするのです。友よ、あなたは、ここに、何を書くか?応答として、続きとして、ちいろば先生が残してくれた余白に何を書くか?と。

記念すること

 今日は榎本保郎の召天40年を記念しているのですが、死を記念するのではありません。イエスさまの墓は死の記念ではなく復活の記念の場所になりました。そこに、まったく新しい神の世界の始まりがあったことを、私たちは知っています。同様に、ちいろば先生の中に全く新しい神の国の始まりがあったことを、私たちは知っているのです。だから、それを今日、記念するのです。「記念」と言うのは文字を見てください。「今」の「心」をしっかりと胸に「記す」のです。
 一番大切だったもの。それは、三浦綾子が『ちいろば先生物語』の中で、榎本保郎のセリフとして書いた、一行です。
 どうしても、神の言葉を聞き逃すことがでけへんのや
 この弱さと愚かさ。それは神の愛に圧倒されたからです。神の言葉に圧倒された魂の言葉です。砕かれながら、抱きしめられたからです。私たちも同じように、馬鹿で弱い者になりましょう。


講演録音CD “一番大切だったもの” 榎本保郎と三浦綾子~二人のアホウが照らす道
2018年 横浜青葉台 約65分 お話し: 森下辰衛

一番大切だったもの

2017年9月の榎本保郎召天40年記念集会での講演の再演。“ちいろば先生”榎本保郎が晩年に書き続けた「アシュラム」誌の巻頭言とそれに応えて同誌に連載された三浦綾子のエッセイ、さらには“瞬きの詩人”水野源三との関わりも含めて、彼らの魂のドラマを読み解きながら、“弱さ”のなかにある希望を語ります。

 
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