感激なきところに人生なし ~ 『愛の鬼才』の世界

森下 辰衛

 1995年秋、初めて三浦綾子さんに会ったとき、綾子さんは私にサイン入りの『愛の鬼才』文庫本を下さったが、当時大学教師であった私にとって『愛の鬼才』は自分を問われる痛い本でもあった。教師としての西村久蔵が余りに凄い人物で、刺さってくる問いだったからだ。
 その後札幌北一条教会の資料室で堀田綾子の「バプテスマ志願書」を見た。その志願書には「志願者」堀田綾子の名と並んで「教保」西村久蔵の署名があったが、この書類は氏名住所生年月日等を含め、すべて青インクの万年筆の同じ筆跡で書かれていた。それは状況や筆跡からして西村久蔵が病床の綾子さんに問いながら書いたものに違いなかった。私は畏れを持ってそれを見た。前川正が堀田綾子にキリストの愛を教えた人だとすれば、信仰者としての堀田綾子の人生の真ん中に十字架を打ち込んだ人がここにいる、と思った。

執筆の事情

 『愛の鬼才』は1982年6月号から83年9月号まで「小説新潮」に連載され、翌月に単行本が刊行された。連載は途中一回、直腸癌の手術のため休載している。三浦綾子は『海嶺』連載中の80年にヘルペスを発病したが、その折「癌が潜んでいることかも知れない」と宣告されたとおり、『愛の鬼才』連載が始まった82年5月に直腸癌が発見され、手術のため旭川赤十字病院に入院。そうした中で、絶筆になるかも知れないという思いを抱きながらこの西村久蔵伝に力を注いだのだ。
 この時期の実生活を知らせてくれる『北国日記』によれば、三浦綾子は1981年に西村歌夫人や西村食品社長の澤村重一氏に会い取材を始めたが、取材に要する時間と体力を思い困難を感じている。しかし「いかに困難でも、西村久蔵という偉大なる人物、愛の天才を何とか世に紹介したきものなり」と決意し、沢村社長から送られてきた取材すべき百二十余名のリストをもとに取材を始める。が、冬になると「どこかに病のあるような、いやな疲れ」を感じるようになる。

   ○月○日
『愛の鬼才』第一回の載った「小説新潮」が送られてくる。これから何カ月かの連載を、今の体でつづけ得るかどうか、甚だ不安なれどとにかく感謝。(略)西村久蔵先生の類稀なる信仰に習って、その生涯を書かねばならぬ。/一日疲労感著し。

 そして1982年の春には下血が続き、癌を自覚して、入院、検査。検査の合間にも『愛の鬼才』の資料調べをする。手術後もなかなか体力は回復せず、微熱もある中、三浦綾子は一回分また一回分と書いていった。
 このような状況下、『愛の鬼才』は強く死を意識しながら書かれた作品であった。そしてここから、一作一作、遺言のようにして伝記小説を書く第三期が本格的に始まる。三浦綾子は、命の危機にあったこの時期だからこそ、かつて病床洗礼のとき「どうぞこの堀田綾子姉妹を、この場において証しのためにお用いください。また御旨にかなわば、一日も早く病床から解き放たれて、神の御用に仕える器としてお用いください」と溢れる涙とともに祈って下さった西村久蔵先生を確かめたかったのだろう。第一章に「西村先生の生き方にわずかでもふれた私は、キリスト者とはすなわち、キリストの愛を伝える使命を持つ者であると、固く信ずるに至った。その信じた延長線上に、現在の小説を書く私の仕事もあることを思わずにはいられない」とあるように、西村久蔵という原点に戻って「先生をして斯く生かしめたキリストを語りたかった」(「あとがき」)というところへ三浦綾子を押していったのだろう。この意図は、『岩に立つ』『夕あり朝あり』『ちいろば先生物語』『われ弱ければ』といったこの時期の伝記小説に通底したものだ。新約聖書に四つの福音書(キリストの伝記)があり、それらが共通の部分を多く持ちながらも、それぞれにオリジナルな証言をもってイエス・キリストを描き、その姿をより豊かに語ろうとするように、様々な人物の生涯を描きながら、それらの人生の共通の中心として働くキリストあるいは聖書の言葉を語ろうとしているのだ。

作品の方法的特質

 三浦文学の研究者山本優子さんは論文「三浦綾子『愛の鬼才』の世界」で、『愛の鬼才』には三浦文芸が得意としてきた劇的なストーリー展開がなく、語り手が全部を語る通常の方法を縮小して、資料を提供した人物の話し言葉で「思い出」を語らせるという方法を用いている点を特徴として挙げている。正確な指摘である。すなわち、多くの西村久蔵体験の断片が三浦綾子によって配置されることで、単一の語り手が同じ語調で全部を語るよりも、よりリアルに立体的に西村久蔵を浮かび上がらせるモザイクになっているのだ。
 「永遠の命とは、永遠の人格のことである」という言葉があるが、西村久蔵に出会った人は「愛とは過去にならないものだ」ということを体験的に知ることになった。「この世を去って三十年にもなるというのに、先生は人の心をゆり動かしてやまない。人々が先生について語る時、その語る人自身の胸は必ず熱くなる。火がついたように燃えてくる。どなられ、叱られた思い出さえが、その人の生きる力となって甦る。」そんな愛を体験した。その西村久蔵という愛の事件を自分の言葉で物語ること、自分の人生と結び合わせつつ語ること、その意味を探り、再び燃やされ温められながら、愛が決して過去にならないものであることを確信させられつつ語ること。それを通して一人一人の西村久蔵と出会った物語は、それぞれの人生を尊いものとして価値づけてくれるのだ。
 その体験談を三浦綾子は自分のストーリーテリングよりも慈しみ尊んだのだ。それは約十年後に書かれる『銃口』の綴り方教育の思想ともつながっている。

西村久蔵の信仰の中心~感激なきところに人生なし

 人生で大事なことは良い出会いをすることだ。人、自分自身、神と深い出会いをするなら、深い人生になり、浅い出会いなら浅い人生になる。そしてその出会いはしばしば人生の危機の時に与えられる。西村久蔵は中学四年の時に留年し、その年に洗礼を受けている。ある家庭集会の日の体験をこう述懐している。

〈その時私は、この神の子を十字架につけて殺したものは人類の罪であり、その罪の審きを贖うために、罪なきイエスが、苦しみ、捨てられ、死に給うたという、それまで何度か聞いた話が急転しまして、私、即ちこの西村という汚い罪人の犯せる罪や、心がイエスを殺したのだ、下手人は私であるという殺人者の実感、しかも、わが救い主、わが恩人、わが父を殺した恐ろしい罪をわが内に感じて、戦慄いたしました。〉

 その晩久蔵は布団を涙でぬらしつつ三時まで祈り、主イエスにお詫びした。西村久蔵の信仰の中でも極めて特徴的だったのは、罪の自覚の強さと、それに比例した救いの感激の強さだった。
 札幌商業で教えていた時、「久蔵は無言のまま、くるりと背を向けると、黒板に大きく、〈感激なきところに人生なし〉と書いた」とあるが、「キリストが、この自分のために死んだのに、どうして無関心でいられるだろう」という思いが、久蔵の人生の根本感情になってゆき、それが久蔵の生き方を変えた。
 いつも生徒と共に泣き、生徒を叱るのに自分の手を鉄のデレッキで打ちつけるという常識を超えた教師、何時出勤何時退社なんてない、誰が社長か分からない変な会社の社長、頼ってきた人は絶対拒否しないのでいつも宿屋のようになっている変な家の家長に彼はなってゆく。
 普通の家と普通の会社は、損しないこと、利益を上げること、金をためて自分たちだけは幸せであることを求める。利己主義だ。構成員もできるだけ辛い仕事はしないでいい目を見たいと思うから、個々の利己主義を抑制するためには、強い力をもった権威や決まりが必要になるし、不平不満や闘争も起きる。ところがここは全く違う原理でできている。利他主義と暖かい人格的な交わりが基盤にあって、働くことが喜びだから権力もいらない。これは、産業革命が進んできたイギリスで、ラスキンやモリスが夢想したことに近い。ある時この洋菓子のニシムラに来て従業員たちをオルグしようとした左翼活動家がいたが、闘争の必要というものが全くないので誰にも相手にされず、早々に引き揚げて行った。
 西村久蔵は『人生の深淵に立ちて-西村久蔵の伝道と思想』という遺稿集に収められた「活ける神」という文の中で次のように書いている。

 此世は消え失せるかも知れない。けれども、私自身が、自己の全存在をかけて、肯くこの信仰による神とイエス・キリストへの愛は最早、神と宇宙と偕に存在し、その愛によって清められた人間同志の愛も、永遠の生命として存在するのである。
 かくて今日一日の仕事にも根拠があり、特に人格と相接する愛の業なる教育に於て歓喜がある。

 西村久蔵のなしたすべての仕事の基礎がここに見事に明示されている。
 先年、教え子でニシムラの社長も勤めた澤村重一氏が思い出を語られるのを聞いたが、途中まで「西村先生は」と呼んでいたのが、熱が入ってくると完全に青年時代に戻ってしまい「吾らの兄貴は」になり、話が終わらなくなってしまった。
 澤村氏がニシムラの社長をしていたある冬、イチゴがすごく高かった。社員が「売るだけ損です。値上げするか、イチゴを赤いゼリーにしましょう」というのを「ニシムラがそんなこと出来るかい。本物のイチゴを載せて百円で食べていただく、これがニシムラだ」と言ってそのまま生のイチゴを載せ続けて販売。一冬のことだ少々の損があってもいい。四、五十万だろうと思っていたが、札幌市民も馬鹿じゃない。一個百円近くするイチゴが載ったケーキが百円だから飛ぶように売れる。「とうとう一冬で二百万も損したよ。ワッハッハ!」と笑う澤村氏の中には、まさに西村久蔵が生きていた。彼が西村先生という人格の傍で生きていたのがよくわかった。

戦争と懺悔 十字架を通ってゆく

 戦後の久蔵は戦争をよしとしたことへの罪責感から、一層厳しい献身の道へ進んで行った。それは「キリストの苦しみをも賜わる」というような生き方だった。久蔵はこの罪をどこにおいても懺悔し、外地から引き揚げて来る人々のためにキリスト村建設に奔走し、毎週金土日の三日間を病気見舞いや講演などのために捧げた。堀田綾子を見舞ったのもこの時期だった。
 ある時は、結核で亡くなった引き取り手のいない女性の遺体を橇に乗せ、一人で雪道を運んで火葬にし遺骨を預かった。イエスが十字架で死んだあと、ニコデモという人が遺体を引き取って葬るが、キリストを殺した自分がその遺体のお世話するのは当然であるというかのように。
 そして一九五三年七月十二日、久蔵は、こんなに立派な先生がどうしてこんなにと思われるような「見るに耐えないほどの苦しみ」の後、その生涯を閉じた。しかし、それは「キリストの苦しみにも与る」ということなのか。自分が殺した主イエス・キリスト、そのイエス様が十字架上で苦しまれたその苦しみの幾分かでも体験させていただくことの喜びが、もしかしたら、久蔵の中にはなかったであろうか。
 新約聖書には「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできません。(ヨハネ14章6節)」とあるが、イエス・キリストを通って行くとはどういうことか。イエス・キリストのように生きるか、イエス・キリストのように死ぬか、イエス・キリストを殺したのが自分であることを認めるか、のどれかではないだろうか。しかしクリスチャンも実はイエスが嫌いだ。イエスのように損をして痛い目をする生き方に巻き込まなれたくないし、イエスのようには愛せない私であることを思い知らされたくないし、イエスを殺したのが自分だとリアルに思ったりはしたくない。『愛の鬼才』の文庫本を三浦綾子から渡された私もそうだった。
 西村久蔵は、キリストを殺したのは自分だという信仰をもって、キリストのように愛して生き、キリストのように苦しんで死んだ。西村久蔵の生涯はこの三つの道をすべて体現していた。
 三浦綾子にとって西村久蔵は真に先生だった。久蔵の息子さんがこう証言してくださった。「綾子さんが亡くなるまで、父の命日には必ず綾子さんからお花が届いていました。」